○ 第七十七章 「命を賭けて得た称号」 ○ 
220年11月

 「孫尚香さま!!」

李厳隊から放たれた連弩の矢が、孫尚香に降り注ごう
というその時、彼女をかばうように前に出る人影が。

   呂拠呂拠   孫尚香孫尚香

呂 拠「孫尚香さま、貴女はまだ死んではならない!
    孫呉の未来は、貴女に託されているのです!」
孫尚香「……呂拠!? いけない!」
呂 拠楚軍よ! 我が名は呂拠なり! 
    孫家一筋に生きた者の死に様を見よっ!!」

 どすどすどすどす

孫尚香の前に立ちはだかった呂拠の全身に、
矢が次々に突き刺さっていく。
何もなければ孫尚香に届くはずだった矢は、
全て呂拠がその身で受け止めていた。

矢が撃ち尽くされて飛んでこなくなった頃、
ゆっくりと、呂拠の身体が後ろに倒れていく。

孫尚香「呂拠……」

孫尚香は倒れこむその背中を受け止めた。
呂拠は全身にびっしりと矢を受けていたが、
その表情は不思議と穏やかなものだった。

孫尚香「ごめんね、呂拠。私なんかのために……。
    ……あなたの孫家への思い、受け取ったわ。
    だから安らかに眠れ、孫呉一の忠臣よ……」

孫尚香は、呂拠の亡骸を近くにいた兵に預けると、
それまでよりも凄まじい表情で楚軍を睨み付けた。

孫尚香「弩隊! 奴らにお返しをしてやりなさい!
    怒りを、無念を、悲しみを全部ぶつけなさい!
    一斉斉射! 放てぇぇぇっ!!」

まるで全ての兵が孫尚香になったかのように、
李厳隊を睨み、手にした弩を撃つ。
たちまち、先ほどの連弩にも匹敵するほどの矢が
李厳隊に降り注いだ。

また、孫尚香も自ら弓を構え、その矢の餌食と
なる相手を探し、李厳隊を見澄ましていた。
すると……。

孫尚香「……あ、あれは?」

李厳隊の中に、一際目立つ将がいる。
背中に孔雀のような羽根飾りを付けたその将は、
周りからかなり浮いていて目立っていた。

孫尚香「ば……馬鹿にしているのか、貴様っ!!」

孫尚香の怒りの一撃。
放たれた矢は将の首をかすめ、鮮血を散らした。
かすった際に、頚動脈を切り裂いたのだろう。

孫尚香「やったか。しかし、敵将を一人やったところで
     呂拠が生き返るわけではないけれど……」

    劉備劉備

劉 備「左様ですな。死人は生き返りません。
     ですから、助かった命は大事にしませんと。
     そしてこの戦い、何としても生き延びねば」
孫尚香「う、うわあ!?」
劉 備「む、人の顔を見るなり『うわあ』というのは
     少々酷いのではないですかな」
孫尚香「い、いつ戻ったの」
劉 備「つい先程です。城内の混乱を収拾した後、
    貴女が狙われたと聞き急いで駆けつけたのに、
    何ですか、その『うわあ』というのは」
孫尚香「側に誰もいないと思ってた所に、
    すぐ後ろから声が掛かったら誰でも驚くわ!」
劉 備「ふむ、それも道理。
    しかしまあ、将来の夫となる人間ですから、
    今のうちに慣らしておいてほしいですな」
孫尚香「は? 夫? ……誰が?」
劉 備「私が、です。この最後の戦いを生き延びたら、
    私は貴女を嫁にいただくつもりですので」
孫尚香「な、なんですと!?」
劉 備「まあまあ、そう驚くことでもありますまい。
    私が貴女に好意を抱いていることは、すでに
    気付かれていたと思ってましたが……」
孫尚香「それは、なんとなくは……って、違う違う!
    私は呉公孫権の妹! あんたは兄の家臣!!
    歳の差だって父と娘くらいあるでしょう!?
    そのあんたになんで嫁がなきゃならないの!」

劉備は孫尚香の反論にふっと笑い返す。

劉 備「何をおっしゃいます。
    愛があれば身分や歳の差など!
孫尚香「その愛の存在を確認してから言いなさい!
    こんな非常時に何を妄言吐いてるかっ!」
劉 備「妄言などではない、私は真面目です!」
孫尚香「真面目なら何言ってもいいわけじゃない!
    今はそーいう雰囲気じゃないっつーの!
    周りを見てから言え、このスカタン!」
劉 備「……ふむ。確かに周りは殺伐としてますな」
孫尚香「そうでしょう……全く、参っちゃうわ」
劉 備「貴女がそうおっしゃるのならば仕方がない。
    この戦いが終わった後に語り合うとしましょう。
    二人きりでそういう雰囲気の時に、ゆっくりと」
孫尚香「え」
劉 備「いやあ、男勝りな方だと思っていましたが、
    意外に雰囲気を大事になさる方のですな。
    いやいや失礼、私も気配りが足りませんでした。
    では、後ほど。それまで死なんでくだされよ」
孫尚香「な……ちょ、ちょ、待っ……」

言葉の出てこない孫尚香を置いて、
劉備は自分の持ち場へと戻っていった。

劉備は言葉巧みに会話を誘導し、孫尚香の側から
彼女に愛を語る機会を作らせたのである。
このあたり、この乱世を60年も生き延びてきた
賢しい男の悪知恵が見えている。
彼女も、劉備の姿が消えた後、それに気付いた。

孫尚香「ああ、もう! なんてペテン師かっ!!
    もういい、後のことは考えないでいよう!
    とりあえず、今は今のことだけ!」

……そして、もうひとつ。
その劉備との会話は、何もなければ悲愴なまま
ずっと戦い続けただろう孫尚香のその心を、
ひと時だけでもその緊張から解きほぐしたのだ。

その点については、孫尚香は気付かなかった。

    ☆☆☆

その頃。
李厳隊では一人の将の命が消えかかっていた。

     李厳李厳

李 厳「しっかりしろ張南!」

孫尚香の矢で首を負傷してしまった張南は、
傷口からの大量の出血で重篤状態にあった。

馮 習「張南……! だから言っただろう、
    こんな目立つ格好はやめろと……!」
李 厳「目立つ格好? どういうことだ?」
馮 習「この、鳥の羽根の装束です」

そう言って馮習が指差したのは、
張南がつけていた派手な装束だった。

馮 習「この戦いの始まる前のことです。
    山越で見つけたこれを来て戦えば、戦場で
    目立つこと間違いなしだと言い出しまして。
    あまり目立ちすぎるのは考え物だから、
    やめておけと言ったのですが……」
李 厳「な、なんてバカなことを」
馮 習「しかし、我らのような者は目立たなければ
    すぐに忘れ去られてしまいます……。
    ですから、私も強くは止められなかった」

そこまで言った時、張南の手が馮習の腕を掴んだ。

張 南「馮習……どの……」
馮 習「しゃべるな張南、動くと余計に血が出る」
張 南「いえ……もう私はダメです……。
    ですから最後に、馮習どのにお礼が言いたい」
馮 習「お礼?」
張 南「はい……これまで、私に付き合って
    一緒に色々とバカなことをしてもらって、
    ありがとうございました……」
馮 習「何を言う、この世は目立った者勝ちだと
    お前が教えてくれたのだろう!」
張 南「はは……。
    それでどれだけ目立てたのでしょうな」
馮 習「十分目立っていた……!
    現に今だって、存在感バッチリだろうが!」
張 南「そうですか、良かった。
    最後に、私の最高のギャグを……。
    ぜひ、馮習どのに伝えたいのですが……」
馮 習「最高のギャグだって?」
張 南「そうです……。そこで李厳どの……。
    ひとつ……お願いが、あるのですが」
李 厳「な、なんだ?」
張 南「眼鏡を貸してくださいませんか。
    そして、私の額の上にかけてもらえませんか」
李 厳「わかった、こうでいいのか?」

李厳は眼鏡を外し、張南の額の部分にかけた。

張 南「こ、これこそ、ギャグの最高峰!
    め、眼鏡、眼鏡、
    メガネメガネメガネメガネ……」
馮 習「……」
李 厳「……」
張 南「……がくっ」
馮 習「ちょ、張南!? 張南ーっ!!」

張南の身体をゆするが、しかし返事はない。
馮習は張南の身体を横たえ、腕を組ませた。

馮 習「張南……お前とコンビを組んで数年……。
    いろいろやってきたな……」

馮習は、これまでのことを思い出す。

張 南『馮習どの! 我々のような凡将は、
    とにかく目立たなくてはいけません!
    この乱世、とにかく目立った者勝ちです!』
馮 習『目立つって……どう目立つ気か』
張 南『人のやらないことをやって目立つのです。
    幸い、ここにいいテキストがあるのですよ』
馮 習『大人のための駄洒落入門……?
    おいおい、駄洒落で本当に目立てるのか』
張 南『これはまず入り口です。
    駄洒落を極めた後は漫才をやっていきます。
    他にこんなことをやってる武将はいません、
    絶対に目立ちますよ!』
馮 習『そりゃやらんだろ、普通は』

張 南『もっと、強く突っ込んでください!
    吹っ飛ばすくらいの勢いで!』
馮 習『わ、わかった……。なんでやねん!』
張 南『しつれいしましたーっ!』
馮 習『ふ、吹っ飛びすぎだろ!?』

張 南『皆との会話の中に自然にギャグを盛り込み、
    我々の存在感を示していくのです』
馮 習『ふむう、周りの者も交えてか……。
    それはなかなか難しくはないかな』
張 南『大丈夫です、切り返しを上手くやれば」
馮 習『では、いくつかのパターンを決めて、
    相手の出方によって変えていくとするか……』

張 南『なかなか有望な新人を見つけましたよ』
馮 習『新人? どういうことだ』
張 南『新しく入った忙牙長なんですがね、
    私たちの芸を見て弟子入りしたいと』
馮 習『……弟子とか芸とか、ほとんど芸人だな』
張 南『何を言ってますか、弟子を取れるほどなら
    顔出しデビューの日も近いということです!』
馮 習『そ、そーいうもんかな』

張 南『今日もまた、皆の注目を集めましたね!』
馮 習『白い目も混ざってたけどな』
張 南『いやあ、それにしても……。
    馮習どのが相方でよかった』
馮 習『ん?』
張 南『ウマが合うというか、呼吸が合うというか。
    戦場でのマジな場面でも、息が合いますし」
馮 習『ああ、それは私も感じていたが』
張 南『これからも漫才コンビの相方として、
    末永く鋭いツッコミをお願いします!』
馮 習『ああ、よろしく……
    ってなんで漫才コンビやねん!』

馮 習「張南……。くうっ……」
李 厳「……馮習、落ち着いたら戦線に復帰してくれ。
    それから記録班、いるか」
記録班「はっ」
李 厳「張南の最後の言葉、ちゃんと記しておけよ」
記録班「はっ。確かに記録しました。
    『楚軍の勇将、張南さまの最後の言葉は、
    メガネメガネであった』と」

芸に生きた将、張南。会稽の地にて死す。

    ☆☆☆

さて、西側の城壁にて孫尚香と李厳の
矢の応酬が行われていた頃のこと。

南側では、霍峻隊が再び危機に陥っていた。

 

楚 兵「隊の陣形が完全に崩れてしまっています!
    何者かの撹乱工作ではないでしょうか」

   霍峻霍峻   馬良馬良

霍 峻「先に撹乱を受けた後、用心のために隊の
    命令形式を切り替えておいたというのに……」
馬 良「我々がどういう命令の形式にするのか、
    そこまで全て読まれていたようですね。
    こんな芸当が出来るのは、呉にいる中では
    庖統どのくらいでしょう」
霍 峻「呉郡の城はまだ戦闘状態には入ってない
    ということですか……」
馬 良「それより、陣形の修復が必要でしょう。
    私が回復のため、回ることにしましょう」
霍 峻「そうですね。馬良どの、
    すいませんがお願いしてよろしいですか」
馬 良「承知しました」

命を受けた馬良は、陣形を回復させるため
霍峻のそばを離れていった。

撹乱を受けて無陣状態となっている霍峻隊。
程普隊はその隙を突いて攻撃を仕掛ける。

    朱治朱治

朱 治「弩兵、連射! 矢を射かけよ!」
呉 兵「はっ! 一斉に連射せよ!」

霍 峻「連射が来ます、防護板を立てなさい!」
楚 兵「はっ! 防護板を立てよ!」

霍峻隊の兵士たちは、矢を防ぐためにと
あらかじめ用意しておいた防護板を立てる。
朱治の命で放たれた連射の大量の矢は、
その立てた板に次々と突き刺さっていった。

霍 峻「無陣状態でも、なんとかなりましたね。
    弩対策をしておいた甲斐がありました」
楚 兵「……将軍!? 程普隊が、こちらに!」
霍 峻「えっ!?」

連射を防いだことでできた一瞬の油断。
程普隊の朱然はその一瞬に賭け、少数の手勢を
率いて、霍峻のいる中央部に切り込んでいった。

    朱然朱然

朱 然「馬鹿め、義父上の連射に気を取られすぎだ!
    各員、奮闘せよ! 霍峻の首を上げるのだ!」

完全に崩れている霍峻隊の陣形の中。
まるで竹を割る時のように、朱然というクサビは
霍峻を目指して一直線に進んでいく。

霍 峻「朱然の進路をふさぎなさい!」
朱 然「無駄だ、一度ついた勢いを殺せるものか!」

朱然の一団が、霍峻のすぐ目の前に迫る。
霍峻自身も剣を抜き、朱然らと斬り結ぶ覚悟を
したその時……。

 ジャーンジャーン

霍 峻「……この音は?」
朱 然「退却の合図だと、どういうことか!?
    ちっ、命拾いをしたな、霍峻!」

霍峻の目前に迫りながら、程普隊の退却の合図に
朱然はすぐ馬首を返し、来た道を逆戻りしていった。

霍 峻「……ふう、危なかった」

手にした剣を鞘に戻し、霍峻は胸を撫で下ろした。

馬 良「大丈夫ですか、霍峻どの!」
霍 峻「ああ、馬良どの。……いやあ、先の貴方の
    懸念が現実になってしまいましたね」
馬 良「怪我はありませんか……。良かった。
    それにしても、敵の大将首を前にしながら、
    彼らは一体なぜ退却を?」
霍 峻「おそらく、限界の時間が来たのでしょう」
馬 良「限界……なるほど、ようやくですか」

一方の朱然は程普隊に戻ると、溜めていた
不満を遠慮なく程普にぶちまけた。

   朱然朱然   程普程普

朱 然「もう少しで霍峻の首を上げられましたのに!
    一体、どういうことですか!」
程 普「もしも、そこにいるのが金旋であれば、
    退かせたりはしなかったがな」
朱 然「どういうことです、それは」
程 普「霍峻を討ち取ったとしても、だ。
    楚軍の侵攻は、少々弱まることはあっても、
    止まることはないということだ」
朱 然「……ということは」
程 普「会稽城がもう耐えられなくなっている。
    我らがすぐに戻らねば、落ちてしまうぞ」
朱 然「くっ……。時間切れですか」
程 普「残念ながらな……。城内へ退却せよ!」

会稽城の窮状を悟り、兵力を補うため程普隊は
城内へと戻っていこうとする。

そこへ、金満隊が追撃をかけた。
その先頭を行くのは、雷圓圓である。

    雷圓圓雷圓圓

雷圓圓おじいちゃん待ってー!

朱 然「……お孫さんですか?」
程 普「いや、全然知らんわ……。
    小娘! 深入りすると痛い目を見るぞ!」
雷圓圓「痛い目見るのはそっちですー!
    せーの、そりゃ、せーの、そりゃ!」

馬上で弓に矢をつがえ、何度も放ってきた。
しかし、程普は少しの動きで上手く避ける。

雷圓圓「むむっ、かわされちゃいましたか。
    棺桶に片足突っ込んでる老人のくせにー!」
程 普「全く、無礼な嬢ちゃんだの」

今度は程普が自分の弓矢を取り出した。
向かってくる雷圓圓の方へ向け、矢弦を引く。

程 普「あまり気が進まんが……仕方ない!」
雷圓圓「……ひっ!?」

 ひゅん ……ぐさっ!

程普の矢は狙い通り、その額に突き刺さった。

……その程普の矢によって額を貫かれた馬は
糸が切れたように足をもつれさせて倒れこみ、
馬上に乗っている雷圓圓を前方に放り出した。

雷圓圓「あだっ! あだだだだっ!!」

雷圓圓は勢いがついたままゴロゴロと転がり、
何回転もした所で大の字になって止まった。

雷圓圓「い、いだいよ〜」
程 普「よいか小娘! その命が助かっただけでも
    ありがたいと思うのだな! はっはっは!」
雷圓圓「ぢ、ぢぐじょ〜。あだだだだだ」

転がった拍子に骨を何本か折り、雷圓圓は重傷を負う。
金満隊が雷圓圓を助けている間に、程普隊は
悠々と城内へ戻っていったのだった。

    ☆☆☆

総じて善戦を続ける呉軍。
いくら気を吐き、その存在感を示しても、
やはり絶対的な兵力の差はどうにもならない。

戦える兵もほとんどいなくなってきた時、
孫尚香に向かって大量の矢が飛来してきた。

   孫尚香孫尚香  劉備劉備

劉 備「危ない!」
孫尚香「えっ?」

劉備がとっさにタックルして彼女を押し倒し、
飛んできた矢が突き刺さるのを防いだ。

孫尚香「あいたたた、頭打った。
    全く、もう少しマシな助け方を……。
    ……劉備? ね、ねえ、ちょっと」

劉備は彼女に覆いかぶさったまま動かない。
まさか、孫皎や呂拠に続いて劉備まで……。

劉 備「うーん……」
孫尚香「あ、生きてる……。よかった……」
劉 備「むむ、残念」
孫尚香「は? 何が残念?」
劉 備「いやあ、鎧を着ていなければもう少し
    よい感触だろうなと思いましてな」

 すりすり

彼女の鎧の胸の部分で顔を擦る劉備。

孫尚香「こ、この非常時に何を……!!
    早く立ちなさい、ぶん殴ってあげるわ!」
劉 備「あ、ちょっと待ちなされ。
    今立ち上がるとまた矢の標的になりますぞ。
    このまま這って城外から見えぬ所まで
    移動するとしましょう」
孫尚香「わかった、殴るのはその後ね」
劉 備「殴るのは確定ですか……」

二人はそのままずりずりと這って移動し、
城外から見えないまでやってきた。

孫尚香「さて、劉備。
    私が右の拳で殴るか左の拳で殴るか、
    お前の能力で当ててみなさい」
劉 備「え、そんな能力なんてありませんが……。
    利き腕の右で思いっきりですか?」
孫尚香「……」
劉 備「違う? じゃあ左?」
孫尚香「……」
劉 備「も、もしや、ヘルアンドヘヴンですか!?」
孫尚香「何それ」
劉 備「こう、両手を合わせて指を組んで、
    そのまま前に突き出しガツーンと……。
    あ、それより額から血が出てますが」
孫尚香「血? ……どこかで切ったかしら」
劉 備「いけませんな、美しい顔が台無しだ」
孫尚香「ななな何を言ってるのよよよ」
劉 備「応急処置で布を巻いておきましょう。
    ささ、頭をこちらに」
孫尚香「あ、ありがとう……」

    程普程普

程 普「おお、お嬢に劉備、ここにおったか。
    む、その頭の布は一体……?」
孫尚香「あ、これは……」
劉 備私のふんどしです
孫尚香「ふ、ふんどしー!? こ、殺す!」
劉 備「冗談です、そう怒らずに。
    それよりも程普どの、どうされました」
程 普「……防御網がもう限界に来ておる。
    もうすぐ、この城は落ちるであろう」
孫尚香「そんな……」
程 普「残念だが、すぐにも脱出せねばならん。
    二人とも、わしと共に来てくだされ」
劉 備「結局、無駄な抵抗だったか」
孫尚香「無駄ではないわ。無駄な訳あるもんですか。
    でなければ、孫皎、呂拠、その他の兵たち、
    死んでいった者たちが浮かばれない……」
程 普「無駄か否か。それは、残された者たちの
    受け止め方ひとつであろう……。
    さあ、お嬢。この戦いの意味を知るためにも、
    貴女には生き延びてもらわねばならん」

程普は二人を連れ、霍峻隊の攻め寄せている
南門へと向かった。

孫尚香「なんで敵の押し寄せている南門からなの?
    北門からの方が安全では……」
程 普「もう陥落は間近だからな、すでに北門は
    楚軍が回ってしまっているだろう」
劉 備「そこで、わざわざ南側から逃げるはずはない、
    という敵の心理をつくわけですな」
程 普「そういうことだ。
    この戦いの中、霍峻隊はかなり疲弊している。
    隙は十分にあるはずだろう……」

話しているうちに、城門が破られた。
霍峻隊の兵士が城内にどっとなだれ込んでくる。

程普らは、楚軍兵士の装束を着込み、
他の兵士の動きにまぎれて城外に出ていった。
その後は他の者の目を盗み、楚軍の中を抜けていく。

孫尚香「な、なんとかなりそうね」
劉 備「しーっ、下手に喋らない方がいいですぞ」

ようやく城を取り巻く楚軍の外れまで来た。
もう少し行けば、もう周りを気にすることなく
逃げることができるだろう。

その時、一人の将が彼らの元に近づいてきた。

劉 備「敵将が近づいてきますぞ」
程 普「……お嬢、劉備。走らない程度に急げ。
    ここはわしが引き受ける」
孫尚香「程普」
程 普「安心せい、今はまだ死ぬつもりはない。
    ただ、この中で一番顔を見られては困るのが
    お嬢、貴女だからの。先に行かせたいのだ」
孫尚香「わ、わかった。早く追い付いてね」
程 普「承知。さ、早く行け」

程普は二人を先に行かせ、自らは兜を目深に被り
近づく将をその場で待っていた。

    関興関興

関 興「……そこの兵。
    隊を離れていくあの二人はどうした」
程 普「は。流行り病の症状を訴えましたため、
    しばらく隊を離れるように指示致しました」
関 興「流行り病……? どんな病の症状だ」
程 普「は、ツケノタブルミガホア病の症状です」
関 興「な、なんだそのツケノ……なんたらとは。
    全く聞いたことがない病だが」
程 普「ツケノタブルミガホア病。恐ろしい難病です。
    この病にかかると、まず脳がやられます。
    精神を犯され、物の判別ができなくなるのです。
    そのためこの病が進行すると、周りの味方を
    切り付け、多数の死傷者を出してしまいます」
関 興「そ、そんな危険な病があったのか……。
    そんな病が、皆に感染してしまったら……」
程 普「この病は、その者と直接触れ合わなければ
    感染することはないと言われております。
    そのため、皆から遠ざけているのです」
関 興「なるほど。そういう理由なら仕方ないな」
程 普「私にも感染の恐れがあります。
    将軍もお近づきになりませんように」
関 興「わ、わかった。では、早く行け」
程 普「は、それでは」

程普は一礼して歩いていく。
終始、顔が見えないように注意しながら。

だが、少し行った所で再び関興がやってきた。

関 興「待て、お前!」
程 普「どうかされましたか」

関興は厳しい顔で槍を突きつけた。

関 興「さっきの病の名はなんだ!
    そんなアホな名があるものか!」
程 普「ほほう、気付かれましたか。
    逆から読んでみたわけですな」
関 興「デタラメを言ってごまかす気だったな!
    貴様……呉の密偵か何かか!?」
程 普「密偵というのとは違いますなあ。
    この顔を見てもらえば、それはわかると
    思いますが……」

程普は兜を脱ぎ、自分の顔を関興に見せた。

関 興「程普どの……!?」
程 普「久しぶりだな、関興どの。
    こんな形で再びまみえるとは思わなかった」

(※程普と関興は同じ部隊で戦ったこともある。
 続金旋伝41章を参照のこと)

関 興「そうか、城から脱出するために……。
    まさか南門から出てくるとは思わなかった。
    意識の盲点を突いたということか」
程 普「貴殿以外に気付く者はいなかったからな。
    なかなか、いい策であったろう?」
関 興「確かに……。
    貴殿がアホな病の名前を言わなければ、
    私も気付くことはなかっただろう」
程 普「ふふ、おふざけが過ぎたな。
    さて、それに気付いた貴殿はどうするかね?」
関 興「……行かれよ、程普どの。
    今は敵味方だが、以前は一緒に戦った仲だ。
    ここで貴方を捕らえることは、私の義に反する」
程 普「ふむ。流石は関羽の子と言うべきか、
    それともまだまだ甘ちゃんだと言うべきか」
関 興「どちらにしろ、もう呉は終わる。
    貴殿を今逃がした所で、脅威にはならない」
程 普「……確かにの。
    残念だが、その判断は見事に的を射ている。
    では、貴殿の好意に甘え、去るとしよう」

関興に背を向け、程普は歩き出す。
その背に、関興は別れの言葉をかけた。

関 興「また会おう、程普どの。
    できれば貴殿にも、いずれ行う私の結婚式に
    出てもらいたいものだ……」
程 普「ほう、嫁を迎えるのか。
    その時どういう立場になっているか知らぬが、
    誘えるだけ誘ってみてくれい」

程普は振り返ることなく、去っていった。

関 興「孫尚香どのとの婚儀は、呉の重鎮である
    程普どのにも祝ってもらいたいからな……。
    よいか、脱走者が紛れこむ可能性もある!
    逃げようとする者は必ず捕らえるのだ!」

    ☆☆☆

11月下旬。
孫尚香、劉備、程普らが脱出していった中、
会稽城は陥落する。

この会稽城を巡る攻防に参加した軍勢は、
楚軍が14万5千、呉軍が6万5千であった。
うち、両軍合わせて5万の兵が負傷し、
死亡・行方不明者は6万に上った。

また、楚軍の張南、呉軍の孫皎と呂拠が戦死。
戦いの中で負傷した将も多く出ていた。

    霍峻霍峻

霍 峻「この戦いで散った両軍将兵に黙祷を捧げます。
    死んだ者にはもはや敵味方もありません。
    彼らに哀悼の意を……」

城内に入った将兵が、皆揃って黙祷を捧げた。

その後、疲れている将兵に休息を与えた後、
霍峻は捕らえている呉軍の将を集め、引見した。
捕らえた将は、戦いの中で捕らえた陸遜、徐盛、
陥落時に捕らえた周泰、呂岱、顧雍、駱統など、
全部で十数名に上った。

   陸遜陸遜   徐盛徐盛

陸 遜「皆を一度に集めてどうされるつもりだ?
    まとめて処刑でもする気ですかな」
徐 盛「早く斬れ、覚悟はとっくにできているわ!」

   霍峻霍峻   馬良馬良

霍 峻「まあ、まずは落ち着いて話を聞いてください。
    馬良どの、お願いします」
馬 良「は。集める前に意思確認を致しましたが、
    どうやら全員、私たち楚国の登用の誘いを
    受ける意志はないようです」

   周泰周泰   呂岱呂岱

周 泰「何を当たり前のことを言っている。
    誘いを受けてホイホイと寝返るような奴が
    呉軍にいるわけはなかろう」
呂 岱「何しろ、ここにいる連中は孫家第一の
    馬鹿ばっかりだからな! はっはっは!」

馬 良「そういうわけですので、皆さんを解放します。
    早々にこの場を立ち去ってくださいませ」
陸 遜「立ち去れ……だと?」
徐 盛「馬鹿な、これほど大量に捕虜にしておいて、
    全て解放するというのか!? 正気か!」
馬 良「正気かどうかはさておきまして、これはすでに
    決定事項です。立ち去るのか、登用されるか。
    どちらかを選び、行動に移していただきましょう」
霍 峻「城外に馬を用意しております。
    そちらをお使いくださいますよう」
陸 遜「霍峻どの、ひとつお聞きしたい」
霍 峻「……なんでしょう?」
陸 遜「呉郡の戦況は、どうなっているのか」
霍 峻「呉郡ですか。
    まだ呉郡の城に味方の軍が到達したとの報は
    届いておりませんが」
陸 遜「そうですか。
    ……では皆さん、参りましょう。
    今ならまだ、防衛戦に間に合います」
周 泰「あ、ああ……わかった。
    どちらにしろ選択の余地はないからな」

諸将は兵に連れられ、ゾロゾロと出ていく。
城外に出た後、剣と馬を渡された彼らは、
呉郡へ向かって駒を駆けさせた。

馬 良「……少しばかり勿体無い気もしますが」
霍 峻「かまいませんよ。彼らがいてもいなくても、
    閣下の呉郡攻略の速度は変わらないでしょう。
    それならば……」
馬 良「ここで一旦、恩を売っておき、呉郡の陥落後の
    登用をやりやすいように、ということですね」
霍 峻「ありていに言えば、そういうことです」
馬 良「ですが、呉郡陥落の時に彼らを捕らえられずに
    逃亡されてしまったら、どうします?」
霍 峻「その時は……。まあ、土下座して閣下に
    お詫びすることにしましょう」
馬 良「では、私は後ろから折檻する役で」
霍 峻「ええっ!?
    一緒に謝ってくれないのですか!?」

会稽の戦いは終結した。
戦う前から結果はほぼ決まっていたようなものだが、
それを導き出すのに多くの犠牲を払った戦いだった。

いよいよ、呉国の終わりの時が近づいていた。

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