219年8月
これは前回よりもさらに少々時間は遡る。
時期としては柴桑がまだ陥落する前の頃。
揚州北部、魏軍の駐屯する廬江城。
前月に諸葛亮がこの城を後にしてからは、
張遼が大将としてこの城の軍をまとめていた。
張遼
臧覇
張 遼「……寿春から手紙が?」
臧 覇「うむ、寿春太守を務める韓遂からだ」
臧覇の手には、一通の封書があった。
張 遼「どれ、とにかく見てみよう……。
なになに、『諸葛軍師からの策の内容は……』」
韓遂
韓 遂「諸葛軍師からの策の内容は、先の密書にて
すでに貴殿も把握していることと思う。
だがわしが思うに、今このままの状況では、
燈艾がこの策に乗ってくることはないだろう」
韓 遂「それは、まだ廬江には3万5千の兵がおり、
我が寿春には3万の兵がいるからだ。
確かに総兵力は10万を超える江夏の楚軍だが、
寿春・廬江が互いの危機を補い合うならば、
十分に対抗しうると燈艾なら思うはずだ」
韓 遂「奴はそういう男だ。まず戦略上でゆるぎない
優位を見出し、勝負を決定付けた上で、
実際に軍を動かし勝っていく。
そんな男を罠にハメようというのならば、
もっと思い切った餌を用意しなければならん。
……そこで、お主は1万の守備兵のみを残し、
残りの兵を率い、江を下って軍師と合流せよ」
韓 遂「これならば燈艾も食いつくはずだ。
必ずや、廬江を攻めてくるであろう。
……なに、廬江の守りならば心配はいらんぞ。
わしが寿春の兵2万を連れて入り、守りを固める。
今度は寿春の守りが薄くなってしまうが、
これは当初の予定通り、小沛からの増援で賄う」
張 遼「『どうだ、張遼。この大胆かつ完璧な手は?
さあ、これをすぐに実行に移されよ。
小沛が落ちるまであまり時間がないからな』
……ふ、軍師の策を補完しているつもりか」
臧 覇「韓遂め……どういうつもりだ?
ここまで守備兵を減らし削ってしまっては、
反って軍師の策を崩すことにならんか?
……い、いや、もしや奴は楚に再び寝返ろうと、
楚に有利な状況を作ろうとしているんじゃ!?」
張 遼「早まるな、臧覇。
それならば寿春を手土産にすぐ寝返るだろう。
わざわざこんな回りくどいことをする訳がない」
臧 覇「あ、そうか。
ではこれは、純粋に魏のためを思ってか」
張 遼「純粋かどうかは別にして……。
確かに、この韓遂どのの言葉には一理ある。
まあ、本当に今のままでは楚軍は動かぬなら、
という条件付きだがな」
臧 覇「しかし、それを確かめる手段はない。
そのまま放置して確かめるわけにもいかん」
張 遼「そうだな、それではもう手遅れだ。
だからこの策、乗ってみるべきと思うのだ。
これが上手くいけば、この地での我らの優位は
動かぬものになるだろう。
そのためには、多少の危険も冒さねばならん」
臧 覇「むむ……虎穴に入らずんば虎子を得ず、か」
張 遼「まあ正直、韓遂どのの思惑に乗ってしまうのは
あまり面白くはないがな……」
臧 覇「思惑? 何か裏があるのか」
張 遼「なに、簡単なことだ。
この戦いで魏軍の優位を確立できれば、軍師の
策を補い、廬江を守る戦いで奮戦した韓遂どのは
その功により揺るぎない地位を得るだろう」
臧 覇「むうっ、た、確かに。
前将軍の位を与えられて大抜擢されてはいるが、
ここでさらに大功を重ねれば、それより上の位、
下手をするとお前と同格(鎮北将軍)くらいまでに
位が上がるやもしれん!
この提案の裏に、そんな下心があったのか……」
張 遼「フ、あからさますぎるくらいだがな」
臧 覇「じゃあ、やめるか?
韓遂には危険すぎると返答すれば……」
張 遼「いや、先にも言ったが、楚より優位に立つには
この策はどうしても成功させねばならん。
だから、ここは韓遂どのの言う通りにする」
臧 覇「ぬう……国のために私情を捨てるか」
張 遼「臧覇、1万の兵を残していく。
韓遂どのと協力し、この廬江を守ってくれ」
臧 覇「お主の頼みなら聞かねばならんだろうが……。
下心の見えている相手と協力するというのは
あまり気が進まんが。まあ、やるだけやろう」
張遼は韓遂の提案通りに2万5千の兵を率い、
廬江を出て揚子江を下り、阜陵へ向かった。
廬江には臧覇と兵1万が後に残った。
だが、これは江夏にいる10万の楚軍から見れば、
『どうぞお食べなさい』とばかりに、虎の目の前に
美味しそうな生肉を投げ出したようなものである。
☆☆☆
廬江の守りが薄くなったことは夏口にも伝わり、
それが諸将の耳に入るや、皆、総大将である
燈艾の元に次々に談判にやってきた。
張苞
関興
張 苞「大将! 俺に3万……いや2万5千でいい!
廬江を落としてくるから兵を貸してくれ!」
関 興「いや、私ならば2万で十分。
以前は廬江にいたこともあるのだ。
どうかここは私に任せてほしい!」
刑道栄「いやいや俺に任せてくれっ!
出番を! どうか出番をくれ〜!」
張 苞「おいおい、刑道栄のおっさんは城攻めに
有効な兵法を全然持ってないだろ!
ここは弩の使える俺が行くべきだ!」
関 興「それはどうかな? そういう張苞とて、
戦場ですぐに我を失うらしいではないか。
ここは名将関羽の血を継ぎ、冷静かつ大胆、
弓にも優れるこの私が……」
張 苞「何を! 我を忘れるとは失礼な!
あれは単に敵を討ち果たすことのみに集中し、
その他一切を気にしていないだけだ!
豪将張飛の血をひき、敵を全て震え上がらせる、
この俺こそが大将には相応しい!」
刑道栄「ええいこの青二才どもがー!
関羽や張飛の血が何だってんだ!
俺はなあ、お前らがまだガキの頃から
ずっと戦ってきてるんだぞ!
この歴戦の将を忘れないでもらおうか!」
張 苞「野戦の時しか出番ないくせに」
刑道栄「あーあーうるせーうるせー!」
費偉
燈艾
費 偉「魏延将軍を安陸城塞に行かせておいたので
これでもまだ静かな方ですな」
燈 艾「……全く。もっとも、放っておくとそのまま
乗り込んできそうではありますが」
魏延は現在、安陸城塞に大将としており、
5万の兵と金目鯛・金閣寺・金胡麻・蛮望らと共に
東の寿春に対し睨みを利かせていた。
公孫朱
公孫朱「で、燈艾どの。この場はどうされるつもりか?
このような絶好の機会を見逃すとも思えぬが」
燈 艾「……しかし、なにやら臭いませんか」
公孫朱「臭う……?」
刑道栄「臭う? もしかして俺の匂いか?
ここ10日ほど風呂入ってないんだが」
公孫朱「とっ……は、はよ風呂入ってきてくだっしょ!
こきたねな、まっだく!」
刑道栄「あ、ああ、すまん。行ってくる」
関 興「10日も風呂に入らないなんて、なんて奴だ。
公孫朱どのが怒るのも無理はないな……。
ん、どうした張苞? そわそわして」
張 苞「い、いや、別になんでもない。
(一週間ほど入ってないんだよな、俺……)」
公孫朱「コホン。臭いの元凶は風呂に行きましたが」
燈 艾「いや、私が臭うと言ったのは、魏軍です」
公孫朱「……魏軍が、風呂に入ってないと?」
燈 艾「風呂から離れてください。
これが廬江を攻める好機だとおっしゃるが、
しかしながら、これはあまりにも絶好すぎる」
費 偉「確かに、魏軍は自ら不利な状況にしている。
何かの計略である可能性も捨てきれないが……」
燈 艾「発端は諸葛亮自らが阜陵に攻めていったこと。
そこからの出来事全てが諸葛亮の指示によるもの
だとすると、我らが攻めても守りきれる対策が
用意されていると考えるべきでしょう」
公孫朱「……具体的には、どんな?」
燈 艾「残念ながら、詳細は分かりません。
廬江の危機には寿春、寿春の危機には廬江と、
それぞれ増援を出して連携し抗戦するだろう、
ということはわかるのですが」
費 偉「しかし、それにも限界があるでしょう。
廬江、寿春を夏口、安陸から同時に攻めれば、
その連携も断つことが出来ましょう。
戦力ではこちらの方が上回っているのですよ」
燈 艾「しかし、敵は神算鬼謀の諸葛亮……。
それを侮っては……」
???「おいおい大将!
何をそんなにビビってる!?」
燈 艾「む……?」
燈艾にその言葉を浴びせた男は、姿を見せた。
この年に魏から引き抜かれてきた文欽である。
文欽
文 欽「まだ見もしない諸葛亮の策を怖れ、
みすみすこの好機を見逃すつもりか!
そのように臆病では大将など務まらぬぞ!」
燈 艾「文欽か……。お主の二十歳という若さでは、
計略がある可能性も量ることはできないか」
関 興「(……大将ってまだ二十三歳だったよな?)」
張 苞「(ああ、確か俺の1つ上だったはず)」
文 欽「計略など気にしていてどうする!
敵の策など、それを上回る勇気と武略により
打ち破っていくべきであろう!」
燈 艾「むう」
文 欽「敵の策略に気を取られすぎて機を逃されるな!
『機を見てせざるは勇無きなり』
孔子もこのような言葉を残している!
今、勇気を振り絞り、敵を討ち果たすべきだ!」
張 苞「おおー。文欽、やるな。
孔子の言葉を知ってるなんて、なんてインテリだ」
文 欽「ふふふ、お褒めに預かり恐悦至極!」
関 興「むう……。孫子なら知っているのだが」
燈 艾「……文欽の言葉にも一理ある。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、ということか」
費 偉「そうですな、計略があるから攻めないというのは
少々臆病すぎるというものでしょう」
燈 艾「諸葛亮の影に怯えてしまっていたか……。
文欽、お主の言葉で目が醒めた。
ここは軍を動かし、廬江を落とすべきだろう」
文 欽「うおっしゃ!」
燈 艾「……だが、ひとつ言っておく」
文 欽「えっ……な、何か?」
燈 艾「先ほど言った孔子が残した言葉、本来は
『義を見てせざるは勇無きなり』という言葉だ」
文 欽「は?」
費 偉「フフ、文欽どの。
御大将は貴殿の先ほど言った言葉の間違いを
訂正されておられるのです。
孔子が残したは『義を見てせざるは勇無きなり』、
『正義が何かを知りながら何もしないのは
勇気がない臆病者と同じことだ』という意味です」
文 欽「そ、そうだったのか……は、はずかしー」
張 苞「ははは、ばーか」
関 興「お前はさっき感心してただろうが」
燈艾は立ち上がり、号令を発する。
燈 艾「……これより廬江を攻める。
兵は5万、これを私自ら率い、副将には
公孫朱、関興、張苞、文欽についてもらう」
公孫朱「承知した」
文 欽「おお! 腕が鳴るな!」
張 苞「関興、この戦いでいずれが上か、勝負するか」
関 興「おう、望むところだ!」
燈 艾「費偉どの」
費 偉「は、何でしょう」
燈 艾「安陸の魏延将軍に使いを。
あちらにも動いてもらいますので」
費 偉「分かりました」
燈 艾「それから、そうですね。
金目鯛どのを安陸から呼び戻してください。
あの方にも働いてもらいましょう」
燈艾は矢継ぎ早に命令を出していった。
その様は、それまで軍を動かすことを渋っていたのと
同一人物とは思えぬほどだった。
彼はその日のうちに準備を整えてしまい、
部隊を廬江に向けて出撃させた。
電光石火の早さで、廬江城までも落としてしまう気か。
刑道栄「いや〜。すっかり長風呂になっちまった。
流石に10日の垢を落とすのは時間食うな。
しかしまあ、そのお陰でこの通りピカピカ、
公孫朱も不快にさせないだけの清潔感を……
あ、あれ? 皆はどこに?」
費 偉「もう出撃しましたが」
刑道栄「うそっ!?」
図らずも韓遂の思惑通りに軍を発した燈艾。
果たして、彼は廬江を落とすことができるのか?
そして、諸葛亮の計の行方は……。
☆☆☆
さて、廬江・寿春の緊張が高まっていく中、
その増援の大半を担うはずの兵力……
小沛に侵攻している呉敦や田豫、梁習の部隊は、
まだ周瑜らの篭る城を落とせずにいた。
呉敦
楊齢
呉 敦「ううむ、もうすぐなのだがな。
周瑜も絶望的な状況下でよく頑張るものだ」
楊 齢「呉敦将軍、韓玄隊が戻ってくるようです。
どうやら偽報を掴まされたことを悟ったようで」
呉 敦「……ほっとけ。奴にもう出番はない」
楊 齢「ですが、戻ってくるまで小沛が落ちないなら、
彼らにもまだ戦う機会があるというものでは?」
呉 敦「それはないな。断言していい」
楊 齢「それは、なにゆえ?
周瑜がもうひと踏ん張りしさえすれば……」
呉 敦「フフフ、そんなことでは変わりはせん。
周瑜がどう頑張ろうが、もう小沛は落ちる」
その頃、小沛城内では。
周瑜、韓当、孫韶らが残った兵を再編し、
魏軍に対して最後の抵抗を見せようとしていた。
孫韶
韓当
孫 韶「残兵再編、終わりました」
韓 当「これで奴らの攻撃にも、もうしばらくは
耐えられるはずだ」
周瑜
周 瑜「ご苦労……。しかし孫韶。
君まで我々に付き合うことはなかろうに。
いや、君だけじゃない。張温や胡質などもそうだ。
君たちの若い力は、ここで浪費すべきではない」
孫 韶「そう堅い事を言われますな、周瑜どの。
私はただ、周瑜どのという男の生き様を
近くで見ていたいだけなのですから」
周 瑜「私の生き様……」
孫 韶「貴方は間違いなく、呉随一の英傑だ。
そんな人物の側でこうやって戦うことができる。
武人としてこれほど栄誉なことはない」
周 瑜「私はそんな大層な人間じゃない。
私以上の人物はそれこそごまんといる」
孫 韶「ご謙遜を……。おっと、そろそろ魏軍が攻撃を
再開してくる頃合でしょうか。
では、私は持ち場に戻りますので」
孫韶は、そう言って周瑜と韓当から離れていった。
周 瑜「困ったものだな、あのようなことでは……」
韓 当「はっはっは。周瑜、もう諦めろ。
どんな言葉も彼らの考えを改めることはできん」
周 瑜「しかし、これからの呉の再生のためには、
絶対に彼らの力は必要になってくる。
彼らは、今ここにいてはいけないのだ」
韓 当「周瑜、人というのはな。
国のために戦う以前に、人のために戦うんだ。
お前なら、良く分かっていると思うが」
周 瑜「……しかし」
韓 当「私は心の中の王のために戦っている。
お前は、心の中の友のために戦っているはず。
それと同じだ……」
周 瑜「しかし、それを認めるわけにはいかない。
彼らは私のためではなく、呉のために
戦ってもらわねばならないのです」
韓 当「言いたいことは分かるがな。
だが、君主を騙してまで戦うことを選んだ
お前に、それを言う権利があるのかな?」
周 瑜「うっ……そう言われると」
韓 当「だろう? それより今は、彼らが慕ってくれる
ことを光栄に思い、それに報いるべきだ」
周 瑜「…………」
周瑜が言葉に詰まったその時、
一人の兵が城外の異変を知らせに来た。
呉 兵「御大将!
西の彼方より、新たな軍勢がやってきます!」
周 瑜「西から……」
韓 当「もしや、汝南の味方が増援を送ってくれたか?」
周 瑜「いや、その可能性は薄い……。
汝南ももはや救援を出す余裕はないはず。
それよりもおそらくは……!」
韓 当「あ、おい! どこへ行く!?」
周 瑜「この目で確認するのです!」
その軍勢の姿を自分の目で確認するため、
周瑜は一番高い物見櫓へと上っていった。
周 瑜「……来たか、あの男が」
周瑜の視線の先には、威風堂々と歩みを進める
魏軍の部隊がいた。
そして、その先頭にいるのは……。
☆☆☆
曹操
夏侯淵
曹 操「周瑜か。興味の尽きぬ男よな。
あのような男を配下にしてみたいものよ」
夏侯淵「ほう、それはそれは。この度、魏公ご自身が
出馬されたのも、彼を捕らえるためですかな」
曹 操「半分はそうだな」
夏侯淵「……残り半分は?」
曹 操「呼ばれたからだ。
わしにどうしても出てきて欲しい、とな」
夏侯淵「呼ばれた……?」
怪訝そうな顔をする夏侯淵を横目に、
曹操は小沛城をじっと見据えた。
曹 操「だが……わしはお前の思う通りにはさせんぞ。
わしは欲しいものは絶対に手に入れる。
そういう人間だからな。フフフフフ……」
曹操は率いている2万の兵に攻撃命令を出し、
小沛城を落としにかかる。
それまで寡兵ながらも、なんとか押し寄せる敵を
防ぎ持たせていた小沛城の守りだったが、
この曹操隊の参戦によって全てが崩壊する。
孫韶
韓当
孫 韶「これまでか……!
しかし流石は曹操! 周瑜どのを倒すのならば、
やはりそれなりの者でなくてはな!」
韓 当「周瑜……! これを待っていたのか!?
自分の生涯最後の相手に、曹操を選んだか!」
孫韶や韓当らの部曲も曹操の攻勢に飲まれた。
小沛城の守りは、完全に打ち破られたのだった。
周瑜
周 瑜「これでいい……。
呉軍を破ることができるのは当代の英雄のみ。
そういう印象さえ与えられれば、我らが留まり
戦った意味もあるというものだ……」
周瑜はただ一人自室に入り、剣に手を掛けた。
鞘から引き抜き、その切っ先を自分に向ける。
周 瑜「さて、伯符(※1)……。私の役割も終わった。
これでようやく君の元へ行けるな」
(※1 孫策の字【あざな】。
ここでの彼らは、互いを字で呼び合う間柄だったが、
孫策が君主となってからは、周りに人がいる際には
周瑜が表だって字を口にすることはなかった)
周瑜は、今は亡き友にそう語りかけた。
そして剣を自分に突き立てようとした、その時。
???「ならんぞ周瑜。死んではならん」
周 瑜「…………!?」
周瑜は一瞬、孫策の声なのかと思ったが、
それは扉の向こうから聞こえた現実のものだった。
周 瑜「誰だ、そこにいるのは」
???「わしか?
フフ、人はわしのことを乱世の姦雄と呼ぶが」
周 瑜「……曹操!? 驚いたな、すでにここまで、
しかも魏公自らやってきていたとは」
その扉の向こうにいるのは、曹操だった。
彼は護衛も連れずに、真っ先に周瑜の元へと
やってきたのだった。
曹 操「お前の自刃を止めねばならなかったからな」
周 瑜「私が自決することまで察していたか。
流石は天下を騒がすだけの人物ではある……。
だが貴方の言葉では、私が死ぬことを
止めることは絶対にできん」
曹 操「いや、違うな。わしの言葉を聞けば、
お前は絶対に思いとどまることだろう」
周 瑜「ほう、何という自信だ。
私の心に響く言葉を用意しているというのか?
ならば、その言葉を聞かせてもらおう」
曹 操「フフフ、周瑜。お前はまだ甘いな。
卞(※2)が以前作ってくれたクソ甘い月餅よりも
さらに甘いと言えよう」
(※2 曹操の正室、卞氏のこと。
曹丕、曹彰、曹植、曹熊を産んだ。
賢妻であることが後世に伝わっているが、
料理が上手かったのかどうかは定かではない)
周 瑜「む……?」
曹 操「なぜわしが乱世の姦雄と呼ばれるのか。
それをまだ分かっておらぬようだ」
周 瑜「ど、どういうことだ」
曹 操「それは今から思い知るだろう。
いいか周瑜、一度しか言わぬからよく聞け」
周 瑜「…………?」
曹 操「お前が自刃すれば、私はこの戦いの捕虜、
そしてこれから支配するであろう呉国の民、
これをことごとく殺す」
周 瑜「なっ……なんと!? き、貴様、正気か!?」
曹 操「いたって正気だよ。周瑜、よいか。
わしは欲しいものは必ず手に入れるタチでな。
それは、どんなに汚い手を使ってでも、だ」
周 瑜「くっ……! 曹操!」
曹 操「何をそんなにいきり立つ。
お前が自刃を思いとどまり、わしの配下となれば、
何も無益な血は流れずに済むのだぞ?
それに、自刃をするなと言っているわけでもない。
どちらを選ぶのかはお前次第なんだぞ?」
周 瑜「な、何をいけしゃあしゃあと……!
人質を取って相手を脅迫しているだけだろうが!」
曹 操「それが姦雄のやり方だ、よくわかっただろう。
さて周瑜、可否を伺おう。どうするかね」
周 瑜「どちらを選ぶかなど! もう判っているだろう!」
曹 操「それでもお前の口から言ってもらわねば、
どうするかは決められん。さあ、可か、否か」
周 瑜「可だ、この姦雄め!」
曹 操「よろしい。ならば契約成立だ。
お前が裏切らぬ限りは、捕虜も呉の民も殺さず、
大事に扱うことを約束しよう。
だからお前は、これからわしのためだけに働け」
周 瑜「くっ! なんという、悪魔の契約か……!
私は、大きな思い違いをしていたようだ。
曹操は英雄などではない。世間の言うような、
世を騒がす姦雄であったのだ……!」
☆☆☆
小沛陥落の後、周瑜は曹操によって登用された。
呉の一番の将、そして忠義者である周瑜が、
魏に降り登用を受けたことはあらゆる者を驚かせた。
孫権
孫 権「公瑾が、魏の将となった……?
まさか、そんな……あ、ありえぬ……!」
秣陵に辿り着いていた孫権は、その報を聞くや
しばらくの間、誰とも会話ができぬほど、
我を忘れ呆然としていたという。
それほど、彼は周瑜に対し絶大な信頼を寄せていた。
周瑜の言葉を蔑ろにしていたように思えたのも、
全て彼を思ってのことだった。
孫 権「……酒だ! 酒が足りんぞ!」
日が経ち、なんとか自我を取り戻した後も、
酒を手放せぬような状態になってしまった。
そんな君主を思ってのことか、家臣たちは
彼の前で周瑜のことを話すことはなくなった。
陸遜
陸 遜「あの時の周瑜どのの言葉には嘘はなかった。
何が貴方をそうさせたのだ……?」
孫権と共に戻った陸遜もまた、しばらくの間
周瑜の投降をを信じることはできなかった。
周瑜の投降は、小沛が落ちた際に捕らえられた
捕虜たちにも影響を与えた。
孫韶
孫 韶「そうか。周瑜どのがおられるのであれば、
私もその登用の誘いを拒む理由がござらんな」
彼を信奉している孫韶は、周瑜のことを知ると
喜んで魏からの登用を受けた。
張 温「周瑜どのほどの方が寝返ったのだ。
我らが今寝返ったとて、それほど世から
非難されることはあるまい」
胡 質「もはや呉は終わったということでござろう。
私も新しい生き方を受け入れましょうぞ」
張温、胡質らも、拒む意思を無くしてしまった。
そして……。
周瑜
韓当
周 瑜「韓当どの……。ここは魏へ降られますよう。
恥辱を耐え、もうしばらく生きてくだされ」
韓 当「どういうことだ、周瑜。
お前がなぜ、そのようなことを言う?
呉のために死すことを選んだのではないのか」
周 瑜「どうか、どうかお願い致す。
周公瑾、伏してお願い申し上げまする……」
韓 当「どうしても言えんのか、お前が変わった理由は」
周 瑜「申し訳ございません」
韓 当「……そうか。ならば仕方ないな。
そして、わしの登用も強要されているか」
周 瑜「…………」
韓 当「わかったわかった。
お前の頼み、ここは聞くしかないのだろうな」
周 瑜「韓当どの……!」
韓 当「ただし、だ」
周 瑜「は」
韓 当「この登用を受けた直後から、貴様とわしは
何の関わりもなくなる。以後、貴様とは
軍務以外のことで口を聞く気は毛頭ない」
周 瑜「韓当どの……!」
韓 当「わかったらさっさと報告しにいけ。
韓当は私の説得で登用を引き受けましたとな」
周 瑜「韓当どの……。申し訳ござらん」
韓 当「何を謝る必要がある。
お前は自分のやるべきことをやっているだけだ」
周 瑜「は。……では、失礼致します」
韓 当「うむ……」
孫堅の代から孫家に仕えていた宿将韓当も、
魏からの登用を受け、寝返ることとなった。
韓 当「周瑜よ……。
その背に我らの命も背負っているのだな。
だから裏切りの汚名を被ることも厭わぬか」
韓当自身は、魏に忠誠を誓うつもりはなかった。
だが、周瑜が自分の命をも背負いしことを察し、
登用を受ける代わりに彼と関わりを絶ち、
彼の負担を軽くしてやろうと考えたのだった。
韓 当「すまんな周瑜……。
もっとお前の負担を軽くしてやりたいが、
わしにはこの程度のことしか思いつかん。
しかし、人生の終わりまで修羅の道を歩まねば
ならんとは、天も残酷な運命を与えるものだ」
これから周瑜を待つのは、過酷な未来しかない。
裏切り者の汚名、不本意ながら従わねばならぬ命。
その未来が病によって短くなることは、
彼にしてみれば幸せなことなのかもしれない。
南の揚州で柴桑が楚軍の手に落ちて数日後のこと、
徐州小沛城は魏軍の手に落ちた。
そして、燈艾は廬江を目指し進軍中であり、
諸葛亮はすでに阜陵を落としている。
諸葛亮が目指す策は、完成しつつあった。
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