○ 第十四章 「知られざる致命的な弱点」 ○ 
218年5月

5月上旬、虎牢関。
夏侯惇を大将とする魏軍1万6千の部隊が
すぐ近くまで来ていた。

  虎牢関

守将の満寵、そして救援に赴いた司馬懿は
その様子を関の上から眺めている。

   司馬懿司馬懿   満寵満寵

司馬懿「敵は井闌を用意してるようですね」
満 寵「左様。敵の構成が攻城兵器中心であれば、
    野戦で破るに如くは無し」
司馬懿「その判断は正しいでしょう。
    もう少し引きつけてから迎え撃ちます」
満 寵「敵部隊の後方からは、濮陽からの別部隊が
    迫っておりますぞ。早目に迎撃した方が……」
司馬懿「いえ、この程度でやられはしません。
    ですから、色々と試しながら戦うとしましょう
満 寵「試しながら……?」
司馬懿「そう、演習みたいなものだと思ってください。
    経験を積んでの勝利を得るのです」

司馬懿はそれ以上のやりとりをせず、
防衛戦の準備を指示し自室へと戻っていった。

満 寵「大丈夫なのだろうか。
    このように余裕をかましていて……?」

    ☆☆☆

  弘農

孟津港の防衛補助などのために建設された弘農城塞。
現在は楽進と牛金が3万の兵とともに駐屯していた。
そこへ司馬孚が派遣され、司馬懿からの指令を伝えた。

    司馬孚司馬孚

司馬孚「ご両名は孟津に向かい、魏国の各港を襲う
    かく乱部隊に参加されるように、ということです」

   楽進楽進   牛金牛金

楽 進「ほう……それはそれは。
    また我が槍を振るう機会を得られるか」
牛 金「腕が鳴りますな、楽進どの!」
楽 進「だが、この城塞はどうする?
    流石に空にするわけにもいくまい」
司馬孚「私がこのまま残りますゆえ、ご心配なく。
    于禁どの達はすでに孟津におりますので、
    楽進どのもお急ぎになりますよう」
楽 進「……む? 于禁がいるのか?」
司馬孚「ええ、今回の艦隊指揮を執るとのことですが」
楽 進「ほう。……問題なくなったのだろうか」
牛 金「問題? 何かあるのですか?」
楽 進「いや、こっちの話だ。
    では司馬孚どの、ここのことはお任せする」
司馬孚「わかりました」

楽進はあとを司馬孚に任せ、牛金と兵2万5千を連れ
すぐ近くの孟津港へと向かった。

牛金は荊州統一戦の際、宛の陥落と共に捕らえられ
それ以降は金旋に仕えている将である。
戦いでは前進あるのみ、とばかりに
猪突猛進の戦い方しかできない猪武者であるが、
その突進力は、一線級の名将たちであっても
防ぐことは容易ではないほどである。
(味方は彼の突進を『猛牛突進』と呼んでいる)

楽 進「今回は于禁や李典も参加するのか。
    文聘以外は旧曹操軍の者ばかりだな……」
牛 金「狙っているとしか思えませんな。
    司馬懿どのは我々の忠誠を試すつもりか?」
楽 進「それは考え過ぎというものだろう。
    司馬懿とて、元々は曹操軍であったしな。
    今回のこれは、連携しやすい者たちを固めた、
    というところだろう」
牛 金「ふむう、連携ですか。
    ……しかし、今回は港を攻撃する作戦とか。
    私は水軍の経験はほとんどありませんぞ」
楽 進「ふ、そう心配するな。
    私も水軍の経験などほとんどない」
牛 金「それでは余計に心配ですがな!」
楽 進「大丈夫だ。艦隊戦をやるわけではないし、
    そう心配せずともいい。経験者もいるしな」
牛 金「経験者……そういえば聞いた話では、
    于禁どの、文聘どのが水軍が扱えるとか」
楽 進「ふむ、まあ扱えるといえば扱えるのだが……」
牛 金「……何か?」
楽 進「いや、そう気にするな。少なくとも、
    呉水軍とやり合う荊州の部隊よりは楽だろうよ」

この頃、ちょうど揚子江では楚呉艦隊戦が行われていた。
その内容は、以前にお伝えした通りである。

楽進・牛金は兵たちと共に孟津港に入る。
出撃前とあって、中は慌しく準備に追われていた。

   文聘文聘   李典李典

文 聘「8番艦の点検報告がまだだが大丈夫か!?
    他はもう終わっているぞ!?」
李 典「おーし、その積荷はそっちの艦だ!
    慎重に積み込めよ、乱暴に扱うと死ぬぞ!」

その中に艦隊の準備をする文聘や、嬉々として
妖しげな武器を積み込む李典の姿は発見したが、
肝心の総大将である所の于禁がどこにも見当たらない。

楽 進「……于禁はどこにいるか、知ってるか?」
 兵 「于禁将軍ですか?
    倉庫のほうで一人たたずんでおりました。
    そういえば、何やら厳しい顔つきでしたが」
楽 進「厳しい顔つき、か……。
    倉庫のほうだな。行ってみるとしよう」
 兵 「はっ、そろそろ出撃準備も整いますので、
    出来ればその旨をお伝え願いませんでしょうか」
楽 進「うむ、わかった」

楽進は倉庫の中に于禁を見つける。
彼の様子はいつもの沈着冷静な風ではなく、
何やらブツブツと独り言を繰り返しており
少し緊張している様子であった。

    于禁于禁

于 禁「……もうすぐ出港の時か。
    大丈夫だ、今回は港を攻撃するのみ……。
    やられるような心配はないはずだ……」
楽 進「于禁」
于 禁うひぃっ!?
楽 進「……そう派手に驚くな。
    こちらまで驚いてしまうだろう」
于 禁「な、なんだ楽進か」
楽 進「その様子だと、相変わらずなようだな」
于 禁「む……。ま、まあな……。
    そう簡単に慣れるものではない」
楽 進「では、まだ皆には秘密にしてるのか」
于 禁「い、言えるか!
    数々の戦を戦い抜いてきたこの私が、
    『泳げない』『水が怖い』などと!」
楽 進「泳げないからこそ、安全そうな楼船の扱いを
    必死に覚えた、などともな……。
    とはいえ、皆はお前に期待しているぞ。
    文聘に次いで水軍が得意な者としてな」
于 禁「め、迷惑だ! 知っているからといって、
    得意であるなどと決めつけるな!(※1)」
楽 進「皆にもそう言ってやればよかろうに。
    そうすれば、変な期待などされなくなる」
于 禁「それでは私の面子が丸つぶれだ!」
楽 進「やれやれ、困ったものだ」

(※1 于禁は兵法『楼船』を持ってはいるが、
 水軍が得意というわけでもなく、水軍熟練も0)

楽 進「……どうする、大将を代わろうか?」
于 禁「それでは司馬懿や韓遂に笑われるわ……。
    大将として、この作戦を成功させてみせる。
    それは心に決めている」
楽 進「そうか、それならば戦友の私としては、
    それを助けてやらねばならんだろうな」
于 禁「すまんな……。
    お主しかこのことを知る者はいないからな。
    頼らせてもらうぞ」
楽 進「せいぜい将兵の前で醜態を晒さぬようにな。
    では、そろそろ出撃準備も整うらしいし、
    行くとしようか」
于 禁「……う、うむ」

5月中旬、兵4万の于禁艦隊は孟津港を出撃した。
最初の目標をすぐ近くの河内港に定め、
楼船を中心とした艦隊は、一糸乱れぬ隊列を組み
北上を始めた。

その整然とした動きを目の当たりにして
兵たちは『流石は于禁将軍よ』と感心したが、
実際の艦隊運用は文聘に任されていたのだった。

于 禁「怖くない、怖くない。落ちない、落ちない」
牛 金「楽進どの、于禁どのが先ほどから何やら
    ブツブツ言ってて不気味なのですが……」
楽 進「は、ははは、気にするな。
    それより、そろそろ準備をしないとな」
牛 金「お、もう着きますか」
楽 進「孟津からはほぼ対岸だしな」

  河内

楽 進「では総大将、指令をお願いする」
于 禁「うむ、では総員第一戦闘配備!
    目標は眼前の魏軍領、河内港!
    怖れるな! この楼船ならばやられはしない!
    水に落ちたりはしないから安心しろ!」
牛 金「……落ちても泳げばいいのでは?」
楽 進「い、いやほら、鎧着てると沈むだろうし」
于 禁「各員の健闘に期待する!
    それでは、攻撃開始だ!」

于禁艦隊の、最初の戦闘が始まった。

    ☆☆☆

于禁が河内港に攻撃を仕掛けた頃、
馬騰の艦隊はまだ平陽へ辿り着いてはいなかった。

  馬騰艦隊

航行中の走舸が小さな波を受けて揺れ、
涼公馬騰とその軍師である法正の座席も
ガタガタと大きく音を立てる。

   馬騰馬騰   法正法正

馬 騰「おっとっと、あまり揺らすな!
    すでにわしの胃の中は空っぽなのだぞ!
    もう出てくるものなど何もないぞ!」
法 正「そうは言いましても、小型の走舸では
    揺らすなというのが無理な話です」
馬 騰「ならば、なぜ大型の船を用意しなかった?」
法 正「用意は確かに出来ましたでしょうが、
    残念ながらそれを扱える人材がいません。(※2)
    そもそも、走舸でもいいから出撃する、
    とおっしゃったのは公ご本人ですが?」
馬 騰「そうだったか?」
法 正「……はあ、もうお忘れですか」
馬 騰「うむ、忘れた。さっぱりとな」

(※2 厳密にはいるのだが、長安方面にはいなかった。
 ほとんどの者は漢中方面に集まっている)

法 正「だいたい、この遠征に何の利があるのです。
    今は饗援との対決に全力を傾けねばならぬ時、
    そんな時に公自らがこのような益なき戦いを
    するなどと……」
馬 騰「そう実利ばかり追うな、法正よ。
    我らがこの乱世の台風の目だと天下に示す、
    それだけでも大きな意味があるのだ」
法 正「それだけのために2万以上の兵を使うなど、
    まともな戦略ではありません……」
馬 騰「そうは言うが、平陽の兵力は5千程度。
    これならばそう兵を失うこともあるまい」
法 正「今はそうかもしれませんが、
    敵が強固な部隊を出せば敗れることは
    いくらでも有り得ます!」
馬 騰「ははは、その時はその時よ!
    さあ、今はとっとと平陽を目指すのだ!
    ……うっぷ、気持ち悪い」
法 正「(ああ、なんと聞き分けのない方だ……。
    君主に恵まれなかったらオー人事……)」
馬 騰「なんだ法正、胃など抑えて。貰いゲロか」
法 正「貴方の顔に吐いて差し上げましょうか!」

名を重んじる馬騰と、逆に実を重んじる法正。
考え方の全く違う両者であったが、
不思議とその相性は合っていたのである。(※3)
法正は馬騰の考え方を全く理解できなかったが、
そのカリスマには惹かれるものがあったのだろう。

(※3 馬騰の相性値70、法正の相性値72)

法 正「どうも憎めないのだよな、この人は。
    とはいえ、このようなことを続けていては
    胃が4つくらいは必要になるな……」
馬 騰「なんだ、牛人間にでもなる気なのか?
    確かにこう何度もゲロゲロやってると、
    牛のように反芻したくなるよなぁ」
法 正「何の話ですか。
    それに、牛人間など想像上の産物ですよ」
馬 騰「いや、いる。わしは信じている。
    この世のどこかに、牛人間はいる!」
法 正「……もう、ご勝手にお信じください」
馬 騰「さあ、それより平陽へ急ぐのだ……
     うっぷおえっぷげろぐはぁーっ!」

    ☆☆☆

再び、場面は于禁艦隊。

   牛金牛金   李典李典

牛 金「くちゅん」
李 典「なんだなんだ牛金?
    顔に似合わず可愛いくしゃみだな」
牛 金「や、やめてくだされ、可愛いなどと。
    ちょっと鼻がムズムズしただけです。
    ……おおかた、誰かに噂でもされたのかと」
李 典「噂か。目の前の河内でしてそうだな」
牛 金「……守将の曹仁どのですな。
    確かにあの方には昔、世話になりましたので、
    何やら言ってそうではありますが」

    曹仁曹仁

曹 仁ごぉらぁ牛金ーっ!
    貴様ぁ、どの面下げてわしの目の前に
    出てきたというのだーっ!」
牛 金「そ、曹仁どの!?」
李 典「……いやはや、噂どころではないな。
    直接怒声を上げているわい」
曹 仁「牛金だけではない! 于禁、楽進、李典!
    貴様ら、魏公の恩義を受けておきながら、
    その恩を忘れて我らを攻撃するとは!
    なんという恥知らずかーっ!」
李 典「失礼だが、曹仁どの!
    曹公の恩義を忘れたことなどないぞ!
    だが、恩義は恩義、大義は大義だ!
    旗を違えている者同士なのだ、
    こうなってしまうのは仕方が無かろう!」
曹 仁「くらぁぁ李典!
    貴様の口の上手さは相変わらずだな!
    わしの目の前に来てもう一度、
    今と同じことを言ってみるがいい!」
李 典「それは御免こうむる!
    貴殿の怖い顔を目の前にしては、
    私の舌は活動を停止してしまうわ!」

于禁艦隊以下4万の兵は、魏軍曹仁の守る
河内港への攻撃を続けていた。
その攻撃に河内港の兵は次々と倒され、
また彼らの反撃は堅牢な防御に防がれてしまい、
戦いの趨勢は完全に楚軍のものになっていた。

副将の典満が、情勢を曹仁に伝えに来る。

典 満「曹仁将軍、形勢は不利ですぞ!」
曹 仁「むむむ……このままでは落ちる!
    1万5千もいた兵たちが、すでにもう
    5千を切っているではないか!」
典 満「将軍! 港は防御の薄い施設です!
    対してあちらは堅牢な楼船の隊、
    守っていてはジリ貧になるのは必定!」
曹 仁「んなこたぁわかってるわい!
    しかし、ここまで差が顕著であるとは……。
    水軍の経験のない奴らと侮っていたが、
    経験のみでは語れんということか」
典 満「ここは、至急に上党に救援を請いましょう!
    軍師諸葛亮に、援軍を出してもらえば……」
曹 仁「救援? あの若造にか!? バカ言え!
    魏の宿将たるわしがそんなことできるか!」
典 満「し、しかし……」

曹仁と典満が言い合っているうちに、
李典に率いられた船団が港へと近付いてくる。

李 典「今が好機だ、例の奴を出せ!
    ここいらで仕上げにかかるぞ!」
曹 仁「むむ、李典!? 奴は何をする気だ!?」
典 満「敵船団は何やら、妖しげな機械の先を
    こちらに向けてますが……」
李 典「よーし、放射!」

 しゃわーーーーー

その李典の号令で、機械からは勢いよく
細かい水滴が撒かれ始める。
その水滴は、曹仁たちの頭上に降りかかった。

曹 仁「これは雨……ではないな。
    あの機械で水を撒いておるのか?」
典 満「……将軍! 水ではありませんぞ!
    これは、あ、油ですっ!
曹 仁「な、なにっ!?」
李 典「今だ! 火矢を放てえっ!」

 ひゅっ……んぼぼぼぼぼ

曹 仁あ、あぢぢぢぢ!!
典 満「火が、火があっ!」
李 典「ははは、見たかっ!
    これぞ『李典式火計装置』!
曹 仁「は、早く火を消さんか!」
典 満「は、はいっ!」
李 典「細かい油の粒を飛ばす技術の確立に
    苦労させられたが、それが実現した今、
    この装置に死角はない!
    魏の命運もこれまでというものよ!
    やはり技術の革新が世界を変えるのだ!」
曹 仁「ええい、やかましいわ!」

港施設の火を消すのに忙しい曹仁は、
うるさい李典の口をとりあえず黙らせようと
近くにあった焦げた材木を投げつけた。

 じゅっ……ゴォォォォォォッ!!

李 典あっ、あぢいいいいいっ!!
典 満「あ、燃えた」
曹 仁「……何が死角はないだ、バカが。
    火気に思い切り弱いではないか」
李 典「だ、だめだ! 総員、船を放棄!
    皆、飛び込めええええ!」
典 満「……川に次々と飛び込んでおりますな。
    どうしますか、将軍」
曹 仁「アホはほっとけ! まずはこちらの消火だ!
    火を消さねば、敵にも対することはできん!」
典 満「はっ!」

だが、曹仁や典満らの懸命の消火作業も空しく、
李典の放った火は港を焼いていく。
特に、接岸するための施設を大いに焼き、
そのままでは船を入港させるのは困難になった。

曹 仁「……酷いな、これは。
    だが、こうなれば敵も容易に接岸は出来ぬ。
    これなら、まだ戦いようが……」
典 満「将軍! 大変です!」
曹 仁「どうした、敵の大攻勢でも始まったか!?」
典 満「いえ、敵が去っていきます!」
曹 仁「な、なに!? な、なぜだ!?
    奴らの目的は、この港を落とし奪うことでは
    なかったのか!?」

  河内終了

方向転換をする艦隊中央、于禁の旗艦。
そこで、文聘が状況の報告を行っていた。
于禁はどっかと司令官の席に座り、
微動だにせずにその報告を聞いていた。

   文聘文聘   于禁于禁

文 聘「河内港の戦力は3千程度にまで減り、、
    港の防御力も大分低下しています。
    これにて河内港に対する攻撃を終了し、
    これより河東港へと向かいます」
于 禁「わかった。こちらの被害は?」
文 聘「4万の兵のうち、死傷者は3千ほど。
    これは、上々の結果と言えるでしょう。
    また、艦で沈んだのは1隻のみで、
    これも半ば自滅のような格好であり、
    敵の攻撃のみで沈められた訳ではないです」
于 禁「そうか……。
    先ほどの火だるまになってた艦だな。
    ……李典は無事か?」
文 聘「川に落ちたところを味方が救出しました。
    アフロヘアになってますがピンピンしてます」
于 禁「ふ、悪運が強い奴だな。
    よし、では引き続き艦隊運用を頼むぞ」
文 聘「はっ、それは構いませんが……。
    よろしいのですか、全て私が仕切っても」
于 禁「ああ、構わん。
    貴殿のほうが水軍の経験は豊富だろう。
    知識のみの私より格段に頼りになる」
文 聘「そこまでおっしゃられるのであれば。
    今後の運用も万全を期して取り組みます」
于 禁「うむ、よろしく頼む」

文聘は一礼すると、艦隊運行のために
自分の艦へと戻っていった。
それと入れ替わりに、楽進がやってくる。

楽 進「ふう、ひと段落ついたな。
    今回はとりあえずボロは出なかったようで、
    良かった良かった」
于 禁「あ、ああ……そうだな」
楽 進「……もしかして、立てないのか?」
于 禁「う、うむ。力が入らなくてな。
    だ、大丈夫だ、死ぬ気になればなんとか、
    立って歩くことはできる」
楽 進「その程度で死ぬ気になられても……」
于 禁「すまん……。
    水の上にいると考えるだけで怖くなって……。
    情けない話だ……」
楽 進「そういえば、なぜ水が苦手なんだ。
    その話は、まだ聞いたことはなかったな?」
于 禁「そういえば、話したことはなかったな。
    ……よし、お主だけには話しておくとしよう。
    話せば長くなるのだが……」

于禁は小さい頃、近所の子供たちに
「于禁の名は『干からびるのを禁ず』って書くんだ。
だから川にでも放り込んで水に浸しておけ」
と川に投げ込まれ、それで溺死しかけたのだ。
それ以来、水が苦手になったのである。

ちなみに「于」の字が「干からびる」ではないと
彼が知ったのは、その後のことであったらしい。

楽 進「……それほど長い話でもなかったが。
    そうか、それで心に傷を……」
于 禁「頭ではわかっているのだ。
    船の上ならそう危険はないだろうし、
    足のつくような所なら溺れることはないと。
    それでも、身体が言うことを聞かんのだ」
楽 進「あまり考えこむな。
    気にしすぎるから身体も緊張するのだろう。
    河東でも激しい戦闘にはならないだろうし、
    気を緩めていけ」
于 禁「う、うむ……っと、総大将は私だぞ。
    なぜお主の方が偉そうにしてるのだ」
楽 進「精神的余裕の差かね。
    なに、総大将は堂々と座っておればいい。
    後は我々が何とかするから」

楽進はそうなだめてやった。

古くからの戦友であり同じ歳であるこの二人、
すでに齢は60に達している。
二人はこの先、いつまで一緒に戦えるのだろうか。

そして彼らの戦い、それと虎牢関の戦いの行方は。

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