○ 第五章 「孫家三代の矜持」 ○ 
218年5月

5月、陸口での楚呉の会戦が始まった頃、
金旋と下町娘は漢津から烏林へ移動中であった。

 陸口会戦直前

   金旋金旋   下町娘下町娘

金 旋「そろそろ始まった頃か。
    勝てるとは思うが、何しろこれくらいの
    規模の水軍戦は初めてだからなぁ……」
下町娘「金旋さま、待ってくださいよぉ〜」
金 旋「何やってるんだ、置いていくぞ」
下町娘「勘弁してくださいよー。私は馬なんて
    そう乗り慣れてはいないんですからぁ。
    私のは金旋さまみたいに名馬じゃないし」

なんとか追いついてきた下町娘はそう言うと、
じーっと羨ましそうに金旋の乗馬を見た。

金 旋「……なんだ、爪黄飛電に乗りたいのか?
    烏林につくまでの間、貸してやろうか」
下町娘「え、いいんですか? じゃ遠慮なく。
    ……ところで、なんで烏林に行くんです?
    別に漢津にいても構わないんじゃ……」
金 旋「ちょっとでも戦場に近い方が、
    何かあった時に対応しやすいだろ」
下町娘「私たち二人が行ったところで、
    別に大差はないと思いますけどね〜」
金 旋「……頭数が必要な事もあるかもしれんだろ。
    ほれ、こっちに乗ってみなさい」
下町娘「わ、天下の名馬に乗れるなんて〜。
    よっこいしょ、っと……えっ?」
金 旋「とりあえず、乗る時の注意なんだが、
    ちゃんとしっかり手綱を引いておかないと
    風のように走り出……」
下町娘ひゃあああぁぁああぁあぁぁぁ
金 旋「……すから気をつけろと言いたかったが、
    遅かったようだな。しかしまあ、
    向かう方向は合ってるし、大丈夫だろう。
    むしろ、戦況の方が心配だが……」

???「すいません、ちょっとここ通りますよ」
金 旋「ん? 誰だ」
宅配屋「宅急便の宅配やってるもんです。
    宅配するのにここ通らないとダメなんで。
    それじゃ失礼しまーす。ではー」
金 旋「なるほど、宅急便屋が横切ったのか。
    あのマークは、クロネコ●マト……ん?
    ……クロネコが横切った?」

何か悪いことが起こる前兆なのか……?
何やら不吉な印象を受けた金旋であった。

    ☆☆☆

   金満金満   孫尚香孫尚香

金 満「撃てっ!」
孫尚香「放てっ!」

陸口会戦は、一番近付いていた金満艦隊4万と
孫尚香艦隊2万5千とが互いに射掛け合う
ことから始まった。

   徐庶徐庶   李厳李厳

徐 庶「始まったな。よし、俺らも行くとするか。
    気を引き締めていくぞ、李厳!」
李 厳「うむ、任せてくれい!」

   孫韶孫韶   太史慈太史慈

孫 韶「お嬢様ばかりに戦わせるなよ。
    呉の男の意地を見せてやれ!」
太史慈「江夏での借りは、必ず返す!」

楚軍は徐庶艦隊5万が、対する呉軍は
孫韶艦隊2万5千、駱統艦隊1万が参戦。
たちまち、大乱戦の様相を呈してきた。
前線にて飛び交う情報も錯綜していく。

楚兵A「お、おい、うちの大将が討たれたってよ」
楚兵B「なにっ、本当か!?
     確かにうちの大将、めっちゃ腕っ節は弱いと
     聞いてはいたが……」
楚兵A「ヤバイぜこの戦い、早く逃げよう!」
楚兵B「し、しかし……」
楚兵A「ぐずぐずしてると俺らまで討たれちまうぞ!
     ほら、とっとと逃げようぜ!」

    金玉昼金玉昼

金玉昼そこーっ!

 すぱーんっ

楚兵A「ぐはっ……!」
楚兵B「す、スリッパが飛んできた!?」
金玉昼「そいつは呉兵の変装にゃ!
    捕まえてふん縛っておきなさいっ!」
楚兵B「えっ!?」
楚兵A「ちっ、失敗か……。とおっ!」

 どぽーん

楚兵B「くそ、逃げられたっ!」
金玉昼「危ないところだったにゃ。
    混乱させ陣を乱そうとしてたみたいにゃ」
楚兵B「そ、そうですよね。
    いくらなんでも、大将が始まってすぐに
    そう簡単に討ち取られるわけは……」
金玉昼「いや、腕っ節は確かに弱いにゃ……。
    何しろ私よりも弱いんだもの」
楚兵B「さ、さいですか」

なお、このことを聞いた金満は……。

   金満金満

金 満「私が討ち取られた?」

    鞏志鞏志

鞏 志「ええ、そのような噂が……」
金 満「では、今ここにいる私は一体何者?
    実は、怨念が固まった幽体なのだろうか」
鞏 志「もしもしー。ただの根も葉もない噂を、
    しかもその当人が信じないでください」
金 満「……はっ! なるほど!
    こうして人は騙されるのですね!?
    そうか……混乱させるということは、
    こういうことだったのか!」

彼の頭の上に、キラリと豆電球が光る。
こうして彼は混乱を習得した。

鞏 志「……こんな覚え方で、本当にちゃんと
    使えるのだろうか……」

    ☆☆☆

さて、金満・徐庶が交戦を始めた頃、
甘寧・朱桓の艦隊も戦場に近付きつつあった。

    甘寧甘寧

甘 寧「むっ……もうすでに始まっていたか!
    我らもすぐにいくぞ!
    凌統! 蒋欽! ぬかるな!」

   凌統凌統   蒋欽蒋欽

凌 統「おうっ!」
蒋 欽「承知!」

   魯圓圓魯圓圓  雷圓圓雷圓圓

魯圓圓「すいません、私たちは……?」
雷圓圓「ぬかってもいいんですか〜?」

甘 寧「流石にぬかりまくっては困るが……。
    まあ適当に頑張れ!」
雷圓圓「おいーっす!」
魯圓圓「……あまり期待されてないわね。
    ま、水軍未経験じゃしょうがないか」

甘寧・朱桓の艦隊は、楚呉両軍が交戦し
船が密集している南の方向へ進路を取る。

だが、その前方に小さな艦隊が進んできた。
烏林方面に向いている孫尚香らの艦隊とは別に、
陸口から甘寧・朱桓らの方向に向かってくる。

 朱治参上

その艦隊の兵数はわずか1万。
しかし船団の動きは素早く、すぐに
甘寧・朱桓隊の行く手を阻んでしまった。

    朱桓朱桓

朱 桓「この素早い動き、見覚えがある……。
    そして旗は……『朱』の旗か」

敵艦隊の旗艦……。
そこには、『朱』の文字の旗がはためき、
その下には、少々老いぼれてはいるものの
朱桓には馴染みのある顔があった。

    朱治朱治

朱 治「おう、誰かと思えば朱桓だったか。
    しばらく見ないうちにおっさんになったな」
朱 桓「やはり朱治どのかっ!
    ……貴方とて、完全に老人の領域だろう!」
朱 治「おやおや、昔は同姓のよしみでいろいろと
    教えてやったのに、その言いぐさは何だ」
朱 桓「昔は昔であろう! 今は敵同士だ!」
朱 治「ふん、あの頃の若造が、いっぱしの口を
    聞くようになったか……。
    いいだろう、お前がどれだけ変わったか、
    今確かめてやるとしよう!」
朱 桓「望むところだ!」

甘 寧「おーい、朱桓。このジジイは誰だー?」
朱 治「な、なにい? ジジイと言うな!」
朱 桓「呉の重鎮、朱治どのだ!
    先々代、孫堅どのからの臣!」
甘 寧「ほー。そんな奴だったとは。
    貧相な顔をしてる割には大物か?」
朱 治「誰が貧相かっ」

朱治、字は君理。
孫堅、孫策、孫権の三代に仕えた宿将である。
それほど目立った功績があるわけではないが、
孫堅には別働隊を任されるなど信頼されており、
また孫策・孫権にも信任されていた。

凌 統「ちなみに、それほど強くはない」
蒋 欽「バランスの良さが売りですな」
朱 治「おう、凌統に蒋欽まで……。
    懐かしい顔にまた会えるとはな」
甘 寧「懐かしがるのは勝手にやっていいが、
    ちょっと邪魔なんだよなぁ。
    そこ通るから、ちょっとどいてくれよ」
朱 治「おう、すまんすまん……。
    ……などとよけるとでも思ったか?」
甘 寧「よけないと、俺と朱桓の艦隊で
    総攻撃をかけるようになるんだがな。
    あんただって命は惜しいだろう」
朱 治「やれるもんならやってみんかい」
甘 寧「あぁん?」
朱 治「我ら呉水軍に、貴様らの攻撃など当たるか!
    さあ早くやってみせろ、このバカヒゲ!
甘 寧「……あんだとコラ。
    もういっぺん言ってみいやぁ、
    このクソジジイがっ!
朱 治「何度でも言ってやるわい、アホヒゲ!
    我らの力をあなどって、手痛いしっぺ返しを
    食らうでないぞ!」
甘 寧「……全艦、攻撃開始!
    あのクソ生意気なジジイの船など、
    ひとつ残らず沈めてしまえっ!」
凌 統「りょ、了解だ、大将」
甘 寧「大将じゃねえ! キャプテンだっ!
凌 統「へ、へいキャプテン!」
蒋 欽「か、甘寧キャプテン……。
    なんとカッコイイのだろうか……!」
凌 統「(えぇ〜。本気かよ〜)」
蒋 欽「キャプテン、見ていてくだされ!
    俺があいつらをぶち破ってやる!」
甘 寧「当たり前のことガタガタ言ってねえで、
    早くやっちまえい!」
蒋 欽「了解、キャプテン!」

朱 桓「甘寧どのっ!
    朱治どのはさほど強いわけではないが、
    なかなかしぶとい男だ!」
甘 寧「んなの関係あっか!
    お前もグズグズしてんじゃねえ!」
朱 桓「りょ、了解……。しかし、朱治どのは
    なぜこのような無謀な戦い方を……?」

甘寧・朱桓側は9万、朱治側は1万。
数の上では、全く相手にならないだろう。
だが……。

朱 治「さあ、かかってこいや!」

朱治の顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。

甘 寧「さあ、矢を撃ち込め!
    敵の数は少ない、矢を集中させて
    ハリネズミにしてやれ!」
楚 兵「了解であります、キャプテン!」

甘寧艦隊が矢を射掛ける。
朱治はすかさず、フォーメーションを変えた。

朱 治「よし……陣形、ホの12番にせよ!
    陰米打亜の陣だ!

蒋 欽「むっ……あれは!?」
甘 寧「何か知っているのか、蒋欽!」
蒋 欽「あれこそは、朱治どのが得意とする、
    陰米打亜の陣!
    均等間隔に並んだ船を左右に往復させ、
    敵の攻撃をかわすのに特化した陣形!」
甘 寧「かわすのに特化、だと?」
蒋 欽「しかもそれだけではない!
    かわしながらもジリジリと近付いてきて、
    味方の陣を食い荒らす、恐ろしい戦法だ!」
甘 寧「むむっ……一筋縄ではいかなそうだな」

蒋欽の言った通り、朱治艦隊は整然と並び、
一定速度で左右に往復を始めた。

 陰米打亜の陣

楚 兵「だ、ダメです! 狙いがつきません!」

矢で狙いを定めていた兵が、声を上げた。

一般の兵は普通、向かってくる敵や
一定速度で動く敵に狙いを定めるのは
通常の訓練で経験してきているものだ。

だがこの朱治の陣形のように敵に往復され、
左右の動きを変えられると、兵たちは途端に
狙いがつけにくくなってしまうのである。

甘 寧「ちっ……ヘタクソどもっ!
    見ていろ、こうやるのだ!」

 ひゅっ

弓の達人である甘寧は、手にした弓に
矢を番えると、すぐにそれを放った。
すると、敵艦隊の先頭の船の兵士が一人、
頭に矢を受けて倒れる。

楚 兵「おおっ」
甘 寧「こうやるんだ、わかったな!」
楚 兵「はっ。それで、具体的にはどうやれば?」
甘 寧キッ、ギュッ、シュバッ、だ!」
楚 兵「……は?」
甘 寧「だから、敵を見てキッ、構えてギュッ、
    矢を放ちシュバッ、だ!」
楚 兵「わ、わかりません!」
甘 寧「なんだと!?
    こんなに具体的に言ってるのに!」
凌 統「(どこが具体的なんだ……)」
甘 寧「凌統! 今、どこが具体的なんだ、
    とか考えていなかったか!?」
凌 統「い、いやっ! 滅相もないっ!」

甘寧の教えは兵たちには通じず、
一体どうしたらいいのかと皆思った。
しかしその時、弓の名手で鳴らした蒋欽が、
兵たちに的確な指示を与える。

蒋 欽「無理に狙おうとしなくていい!
    『ここに来そうだ』という所を狙い、
    あらかじめ撃ち込めばよい!
    そうすれば、いくつかは当たるだろう!」
楚 兵「おお、分かりやすい。
    それなら俺にもできそうだ」
甘 寧「……ああん?
    俺の言うことは分かりにくいってか!?」
楚 兵「あっ、いえっ、その……」
蒋 欽「甘寧キャプテン!
    貴方の教え方は、弓の扱いが下手な
    兵たちには難しすぎたのです!
    それは貴方の弓の腕が凄すぎるからだ!」
甘 寧「ああ、なるほど。そういうことか」

甘寧は妙に納得して指揮に戻った。

凌 統「(……結構おだてに弱いんだな)」
甘 寧「なんだとう!?」
凌 統「わっ」
甘 寧「……ん? なんだ、空耳か?
    誰かが俺の悪口を言ってるかと思ったが」
凌 統「(このキャプテンモードの時は妙に鋭いな)
    キャプテン、敵兵が何やら言っていたぞ。
    おそらくそれが聞こえたのでは?」
甘 寧「なにっ……おのれ、呉軍め」
凌 統「だが敵部隊は所詮は寡兵。
    このまま矢を射続ければ追い払えよう」
甘 寧「いや、少々矢が当たるようになったとて、
    厄介な陣形なのは変わりはない。
    できればあの陣を崩し、早期に倒したい」
凌 統「しかし、崩すと言ってもどうやって……」
甘 寧「……ひとつ、口先で動かしてみようか」

甘寧はそう呟くと、拡声器を取り出し
朱治艦隊に向けて声を張り上げた。

甘 寧「無様だな、老いぼれ将軍!
    偉そうなことを言った割に、そのような
    セコい戦い方しかできんとはな!
    やはり我らの敵ではないっ!」

朱 治「むっ……」
呉兵長「くっ、将軍を愚弄する気かっ!」

甘 寧「呉の水軍は最強とうそぶいているようだが、
    俺に言わせればちゃんちゃら可笑しいわ!
    お前らの最強という言葉は、逃げ回って
    生き残ることを指すのか!?」

魯圓圓「……流石は甘寧将軍ね。
    敵を罵るにしても、言葉のひとつひとつが
    的確な所を突いているわ……」
雷圓圓「何してるんですか、お姉さま?」
魯圓圓「罵声のポイントをメモってるのよ。
    これは使えるわ」

(魯圓圓、罵声を習得)

呉兵長「ぐっ……おのれっ」
朱 治「……言わせておけい」
呉兵長「しかし!」
朱 治「ここで冷静さを欠いてはならん」
呉兵長「ですが、あの罵声で兵たちの士気が
    下がっておりますぞ……」
朱 治「作戦の成功こそが第一だ。
    ……絶対に陣形を崩すな!」
呉兵長「はっ」

甘 寧「……ふん、いい度胸だ。
    士気が下がっても陣を変える気は
    全くないようだな……」
凌 統「どうしやす、キャプテン」
甘 寧「敵艦隊が整然と動いてるうちは、
    突っ込むわけにもいかん。
    ……朱桓隊はどうしている?」
凌 統「距離を保ちながら矢を放っている模様」
甘 寧「では、我らも矢で応戦だ。
    ……ただし、放つ矢の量は倍にしろ!
    物量で押し切るつもりでやれ!」
凌 統「へいキャプテン!」

甘寧艦隊は放つ矢を増量した。
たちまち、朱治艦隊に降り注ぐ大群の矢。

呉兵長「むむっ……。やはり数の差が……。
    将軍! ここは一旦下がるべきかと!」
朱 治「ならん」
呉兵長「しかし、敵の攻撃が激しすぎます!
    何も逃げようというのではありません、
    一度形勢を立て直し、再度戦いを……」
朱 治「ならんっ!」
呉兵長「ですが、このままではジリジリと消耗し、
    終いにはやられますぞ!」
朱 治「それこそが……。
    それこそが、我らの役割よ」
呉兵長「……役割……ですと?」
朱 治「そうだ、役割だ。
    ……我らは、死兵なのだ

   ☆☆☆

ここで少し時間は遡る。
場所は陸口港、呉艦隊が出撃をする、
その前日のことである。

軍師の庖統、そして大将の孫尚香は、
楚艦隊に対するための策を講じていた。

   孫尚香孫尚香  庖統庖統

孫尚香「……私、孫韶、潘璋、駱統、
    以上の四艦隊は準備が出来ている。
    総勢で8万5千の兵だ。しかし、
    これでも敵軍の半分にしかならない」
庖 統「はい」
孫尚香「これで、本当に勝てる?
    敵軍の兵は18万もいるというのに」
庖 統「数の上で申せば……。
    18万集まった敵に8万5千で戦えば、
    ほぼ確実に負けましょうな」
孫尚香「軍師!? そんな、確実に負けるなど……」
庖 統「ですが、9万対8万5千であれば、
    どうなりますかな?」
孫尚香「……それは、どういう意味?」
庖 統「言葉通りの意味です。
    ほぼ同数の相手なら、呉水軍の力を考えれば
    こちらが勝利を得ることは容易なはず」
孫尚香「確かに、その数ならばそうだけど……」
庖 統「すなわち、我が軍が勝利を得るためには、
    そのような状況に持ち込めばよいのです。
    敵が2方向より侵攻していることが、
    我らの勝利の鍵……」
孫尚香「2方向より、9万ずつ……。
    つまり、敵が合流する前に叩く、ということ?」
庖 統「そうです。
    そして我が軍は戦力を集中させて、
    それぞれを各個撃破するのです」
孫尚香「でも、どうやって分断するの?
    どちらも、ほぼ変わらない頃に到着するだろう、
    ということだけど。9万もの兵数、
    少々の時間差で叩くなど絶対に無理よ」
庖 統「それを可能にするのには、死を恐れぬ将、
    そして1万の兵とその艦隊が必要です」
孫尚香「……死を恐れぬ将?」
庖 統「その者たちには死兵になって頂きます。
    一方の敵を受け持ち、時間を稼ぐ役目。
    その者たちが持ち堪えている間、
    もう一方を主力部隊が叩くのです」
孫尚香「……それでは、その将は死ぬわ」
庖 統「ですが、勝利を得るためには、
    もはやこれしかありません」
孫尚香「でも、そんな役目、誰が……」

その時、部屋の外から一人の将が入ってきた。

    朱治朱治

朱 治「私がやろう」
孫尚香「朱治……!?」
朱 治「すまんな、立ち聞きしておった。
    こんな老いた将でよければその役目、
    請け負うとしよう」
庖 統「ふむ……。朱治どのであれば、
    私は任せてもよいと思いますが」
孫尚香「駄目! 朱治では無理!」
朱 治「無理なものですか。
    この役目、如何に上手く敵部隊を
    釣っていられるかが成否の鍵。
    また、武に優れる者は主力部隊の方に
    組み込むべき……となれば、
    私以上の適役はおりますまい?」
庖 統「老練な朱治どのであれば、必ずや、
    敵を引きつける役目を果たしましょう」
孫尚香「でも、でも……!」
朱 治「やれやれ、そう取り乱すでないよ、お嬢。
    軍議の時の立派な姿はどこへいった?
    まるでお父上、孫堅どのがそこにいるのかと
    思ったほどなのに、今はただの涙もろい
    女子にしか見えぬぞ?」
孫尚香「わ、私は……」

孫尚香は、父、孫堅の姿を知らない。
母が彼女を身篭っている間に、孫堅は
劉表との戦いで戦死してしまったからだ。

孫尚香がまだ小さい頃に、兄である孫策は
呉を攻め取り、それ以降は彼女は呉で育った。
その彼女に、父、孫堅のことを話して
聞かせてやっていたのが、この朱治である。

他の孫堅の代からの武骨な将らと違い、
朱治は子供たちの面倒をみるのが上手かった。
それゆえ、孫策は彼に弟や妹たちの
話し相手を任せていたのだ。

いわば、朱治は孫尚香にとって
家族のような存在なのである。

朱 治「どうも私と顔を合わせると、
    お嬢は昔の子供の顔に戻るようだな」
孫尚香「あ……当たり前でしょう?
    ずっと子供の頃から一緒にいたのよ。
    今更、大人びた顔などできない」
朱 治「……そういう顔を私だけが見れる、
    それはそれで嬉しい。だが……。
    今は、それではいかんのだ」
孫尚香「それは……それは、分かっている。
    分かってはいるけど……」
朱 治「しっかりせい!
    お主の父孫堅は、例えこんな時でも、
    一寸の迷いなく命じるはず!
    兄孫策、そしてご主君もそうだ!」
孫尚香「うっ……」
朱 治「大将は、非情にならねばならぬ時もある。
    お嬢が武人として生きると決めた以上、
    これは避けては通れぬのだぞ」
孫尚香「わかった……。
    覚悟を持てということね」
朱 治「そう、それでよいのだ。
    ならばお嬢……いや、御大将。
    さあ、私に命じられよ。
    呉の勝利のために、死んでくれと」

孫家三代に仕えた矜持。
そして、目の前の若き大将……。
今の朱治には、命以上に守りたいものがあった。

急遽準備された朱治の艦隊は、
本隊とは別方向、漢津方面より侵攻する
甘寧・朱桓艦隊へ向けて出港した。

二度と陸へは戻らぬ覚悟を持って……。

[第四章へ戻る<]  [三国志TOP]  [>コラム1へ進む]