○ 第八十六章 「華佗でも治せぬ不治の病」 ○ 
217年11月

洛陽

11月上旬、洛陽。
金旋が襄陽で演習を開始したのと同じ頃。

司馬懿は、司馬孚と崔炎を使者として
曹操のいる濮陽へ送った。
先の孟津での会戦で捕らえられた、
于禁・秦朗の返還を求めるためである。

   司馬懿司馬懿

司馬懿「さて、上手くやってくれるか……」
???「一体何をです?」

   郭淮郭淮

司馬懿「これはこれは郭淮どの。
    怪我の方はもう良いのですか?」
郭 淮「華佗に診てもらいましたゆえ、
    ご心配には及びません」
司馬懿「それはよかった。これからの戦略、
    郭淮どの抜きでは無理ですからね。
    しかし、ご自慢の仮面が……」

よく見ると、郭淮の仮面は、
真ん中をセロテープで固定されていた。
関羽に割られた仮面を、テープで補修して
付けているようだった。

郭 淮「ああ、これの代わりはありませんので。
    後で匠に直して貰わねば……あっ」
司馬懿「どうかしましたか、郭淮どの?」
郭 淮「私は郭淮ではなくカクワイダーです!」
司馬懿「……そのようなこと、
    毎度毎度言われなくとも結構です。
    それより、孟津攻略の準備ですが」
郭 淮「ま、まだ攻めるつもりですか?
    その目でお分かりになったでしょう、
    関羽は一筋縄で敵う相手ではない!
    兵も将も増強せねば、勝てませんぞ!」
司馬懿「貴方が関羽を怖がるのもわかりますが……」
郭 淮「怖がってはいない!
    この戦いで強さを知ったまで!」
司馬懿「ご心配なさらずとも、関羽ならば
    我が策が成れば孟津から去りますよ」
郭 淮「……孟津を去る? 策? 何のことです」
司馬懿「ふふふ、まあ見ていてください。
    有利な状況を作り出し、それから孟津を……」

伝 令「申し上げます!」

郭 淮「何事か!?」
伝 令「黄河上流に田豫隊2万の艦隊を確認!
    孟津港へ向かっているとのことです!」
郭 淮「……敵は港の兵を増強するつもりか。
    それとも、直接洛陽を攻撃する気か……」
司馬懿「流石に、簡単には負けてくれぬようですね」

    ☆☆☆

洛陽に新たな緊張が走っていた頃、
捕虜返還要求の役目を帯びた司馬孚と崔炎は、
曹操のいる濮陽城に到着した。
これから曹操に謁見するところである。

すでに配下の将が脇に並び、司馬孚・崔炎に
矢のような視線を送っていた。
以前は味方であった者たちへの、
主君を裏切ったことに対する批難の視線である。

  司馬孚司馬孚  崔炎崔炎

司馬孚「うう……。辛い役回りだ……」
崔 炎「そうかな?
    なかなか、美味しい役だと思うが」
司馬孚「よく平気な顔をしてますね……。
    貴方も曹操軍にいたのでしょう?」
崔 炎「私は、漢の大将軍の元にいただけ。
    そして、今は漢の楚王の元にいる。
    やましいことなど、何もない」
司馬孚「そんな詭弁で相手は納得しませんよ……」
崔 炎「相手がどうこうなど関係ない。
    私自身はそれで納得しているのだ。
    他人に文句など言わせぬよ」
司馬孚「……全く、羨ましい性格です」
崔 炎「しっ……来たようだぞ」

カツカツと足音を立てて曹操が現れ、
座に歩み寄り腰を下ろす。

  曹操曹操

曹 操「司馬孚と崔炎か。久しぶりだな」
司馬孚「は、お久しぶりにございます」
崔 炎「魏公曹操どのには御機嫌麗しゅう。
    我ら、楚王金旋の使いで参りました」
曹 操「……崔炎よ。
    持って回った言い回しは不要だ。
    用件のみを話すがいい」
司馬孚「では、私から……。
    我が軍の于禁・秦朗、この二名が、
    先の孟津での戦いで貴軍の捕虜となりました。
    つきましては、この両名を返還願いたい」
曹 操「司馬孚」
司馬孚「はっ」
曹 操「そのニ名、元々は私の配下だった者だ。
    それは知っているのだろうな」
司馬孚「重々承知しております。
    しかしながらその両名、今では
    楚の軍において欠けてはならぬ人材」
曹 操「我らとて、彼らがいないばかりに
    辛い戦いを強いられているのだがな?」
司馬孚「……むむ」

司馬孚が思わず言葉に詰まったところに、
崔炎が助け船を出した。

崔 炎「さて、それはいかがなものでしょう」
曹 操「なに?」
崔 炎「両名とも、今では貴軍ではなく
    金旋軍に居場所を見つけております。
    彼らに帰順する気がないならば、
    それをアテにするのはおかしいこと」
曹 操「……抑留を続けても彼らの心は変わらぬ、
    だから返せ、そう言いたいのか」
崔 炎「左様です」
曹 操「はっきりと言ってくれるものだな」
崔 炎「曹操どの、彼らが戻ってくるかどうか、
    聡明な貴殿ならおわかりだと思うが」
曹 操「……ふん」
司馬孚「……そこで、手を打とうということです。
    身代金と交換で返していただければ、
    我らはかけがえのない仲間を取り戻し、
    曹操どのは金を手に入れることができる。
    これで収めることに致しましょう」
曹 操「……まあ、よかろう。私も以前に
    捕虜を返してもらったことがある。
    その借りを返すのだと思えばよい」
司馬孚「あ、ありがとうございます」
曹 操「では、後は良いな。
    細かい条件は他の者に任せる」

曹操が席を立とうとした時、
司馬孚が慌てて呼び止めた。

司馬孚「あ、申し訳ありません。
    ひとつお聞きしてよろしいですか」
曹 操「……なんだ?」
司馬孚「孟津での戦いのこと、
    魏公はどこまで聞いておられますか」
曹 操「ふむ? 報告ではあまり詳しいことは
    聞けなかったが、『関羽が活躍した』
    ということは知っているぞ」
司馬孚「実は、私はその様子、
    かなり詳しく聞いておりますが。
    ……孟津での関羽どのの活躍ぶり、
    お聞きになりたいと思いませぬか」
曹 操「なに!? は、話してくれるというのか!?」
司馬孚「は、魏公がよろしいのであれば」
曹 操「は、話せ! い、いや話してくれ!」
司馬孚「はい。では、早速……。
    まずは、関羽艦隊の登場から……」
曹 操「お、おおっ」

司馬孚は、李典や郭淮などから聞いた内容をまとめ、
まるで関羽が主人公である物語のように
曹操に話して聞かせた。

司馬孚「その時、関羽は言ったのです。
    『武をもって雌雄を決し、
    勝った方が真の英雄である!』と」
曹 操「お、おおっ!
    かかか関羽がそのようなことを!?
    か、感動だ……関羽が、関羽がそこまで
    私を慕っていてくれたとは……」
司馬孚「そして青龍偃月刀を一閃!
    その刃は郭淮の額を捉えましたが、
    しかし割れたのは郭淮の仮面のみ!
    関羽は郭淮の命は切らずに、
    その弁だけを断じたのでありました!」
曹 操「か、かっこよすぎるわい、関羽めっ」

……司馬孚は司馬懿隊の全面退却まで話し終えたが、
曹操はまだ興奮冷めやらぬ様子で、話をせがんだ。
あまりにも熱心にアンコールを頼まれたため、
しょうがなくもう一度最初から話をすることに。

立っている将たちが皆、ももやふくらはぎを揉み、
崔炎はコックリコックリと居眠りする間、
そのアンコール講演は続けられた。
そして、ようやくそれも終わりとなる……。

と思われたが、またアンコールを頼む曹操。
流石にそれは、両脇に立つ将が止めた。
名残り惜しそうな表情で、曹操は司馬孚に言った。

曹 操「司馬孚よ……感動したぞ!
    ここまで感動したのは実に久しぶりだ!」
司馬孚「あ、ありがとうございます」
曹 操「どうであろうか。
    于禁・秦朗の身代金はいらぬから、
    しばらくここに留まり、また話を……」
崔 炎「魏公、未練ですぞ」
曹 操「……むむむ、ダメか」
崔 炎「では、失礼いたす。
    ……それほど関羽が気になるなら、
    直接話をすればよいと思いますがな」

司馬孚と崔炎は、その場から下がった。

司馬孚「……ふう。一応、役目は果たせたか」
崔 炎「しかし、面白い語りであったのう。
    流石は司馬の八達よ、見事な才だ」
司馬孚「……二回目は居眠りしてませんでしたか?」
崔 炎「ははは、気付いておったか」
司馬孚「しかし、このような話をしたところで、
    何が変わるというのか……」
崔 炎「ふ、曹操のあの様子を見ても分からぬのか。
    ならば、帰ってから司馬懿に聞くが良い」
司馬孚「え? 崔炎どのは、
    姉上のはかりごとの内容をご存知で?」
崔 炎「うむ。策の補間を頼まれてな。
    その時にどのような意味なのか聞いた」
司馬孚「私には話してくれなかったのに……」
崔 炎「あくまで私は、策がずれた際に
    軌道を直す役目を負うただけ。
    この策の主役は私ではなく、貴殿なのだ。
    だから司馬懿も、貴殿に余計なことは
    言わなかったのだろうな」
司馬孚「……この策の目的は何なのです?」
崔 炎「貴殿もあの司馬懿の弟であろう。
    自分で導き出してみるのだな。
    でなければ、司馬懿に直接聞けい」
司馬孚「むう」

正式に于禁・秦朗の返還が決まり、
司馬孚・崔炎は洛陽への帰路についた。

    ☆☆☆

  司馬懿司馬懿  司馬孚司馬孚

司馬孚「言われた通り、関羽の話を聞かせました」
司馬懿「ご苦労様。曹操は熱心に聞いていましたか」
司馬孚「はい、それはもう……」
司馬懿「結構。これで我が策、成った」
司馬孚「そろそろ良いでしょう。
    どのような策なのか教えてください」
司馬懿「なんのことはないのです。
    ただ、曹操の病を再発させただけのこと」
司馬孚「病……?」

伝 令「申し上げます!」
司馬懿「何事か」
伝 令「孟津で動きがあった模様!
    詳細は現在、密偵が調べておりますが、
    大将が交代になったようです!」
司馬懿「わかりました。
    続報があればすぐに報告を」
伝 令「はっ」

司馬孚「大将が……関羽が交代?」
司馬懿「どうやら、上手く行ったようですね」
司馬孚「姉上。曹操の病とは……」
司馬懿「ふふふ。ただの恋の病ですよ」
司馬孚「恋?」
司馬懿「貴方が話をすることで、曹操の
    関羽に恋焦がれる気持ちを刺激したのです。
    これで少しはやりやすくなるでしょう」

    ☆☆☆

上党。軍師諸葛亮の元に、
曹操からの急使が来ていた。

   諸葛亮諸葛亮

諸葛亮「関羽将軍を返せ……?」
使 者「はっ。閣下はそのように仰せです」
諸葛亮「孟津を落とし、また攻め手から守ったのは
    関羽将軍の武があったからこそ。
    それは閣下とてお分かりのはず」
使 者「しかし、東部の戦線は芳しくなく、
    先日も陸遜に下[丕β]を落とされたばかり。
    それを関羽将軍の武をもって取り返す、
    そのようなことを仰せでした」
諸葛亮「むむ……小沛に続いて下[丕β]か。
    徐州は陸遜一人にやられておるな。
    しかし、孟津は金旋領に打ち込んだくさび。
    これを守り、そして洛陽を脅かす将が……」
使 者「優秀な将はまだ上党に残っているのだから、
    代わりの大将はそこから出せ……と」
諸葛亮「確かに残ってはいるが……。
    流石に関羽将軍と比べると、見劣りがな。
    しかし閣下がそのようにお考えなら仕方ない。
    夏侯淵将軍と交代ということにしよう」
使 者「はっ」
諸葛亮「後は、優秀な補佐をつければ良かろう……。
    さて、誰をつければよいのか」
???「その役目、私が果たしましょう」
諸葛亮「む、誰です?」
???「私ですよ、私」
諸葛亮「むむむ、声はすれども姿は見えず」
???「目線を下げてください! 目線を!」

 黄月英

そう言われて、諸葛亮はようやく姿を見つけた。
彼の視界に現れたのは、妻である黄月英。

なお、彼女の容姿は次のように記されている。
『髪は赤茶けており、顔も色黒、背も低い』と。
身の丈8尺(※)の諸葛亮からすれば、
かなり下に目線を移さないと視界に入らない
ちんまりとした女性であった。

(※ この頃の1尺は24cm弱、つまり約190cm)

彼女は女の身ではあったが、
夫である諸葛亮に負けず劣らず聡明であり、
曹操に見込まれて将として名を連ねていた。

   黄月英黄月英

黄月英「知の面での補佐ならば、私が」
諸葛亮「月英か……。確かにお前の能力は
    補佐役を果たせるだけのものはある」
黄月英「はい、ありがとうございます」
諸葛亮「しかし、お前は私の妻であり、性は女だ。
    果たして、夏侯淵将軍が女の言を全て
    信じてくださろうか。ましてやチ……。
    ……いや、なんでもない」
黄月英「チビで肌が黒くて赤毛でブスな私の言など、
    夏侯淵将軍は取り合わない……と」
諸葛亮「そ、そんなことは思ってはいない。
    チンチクリンな、と言おうとしただけだ」
黄月英「大して変わりませんよ」
諸葛亮「い、いや……。
    私はその小さいお前が好きなのだ」

 むぎゅ

黄月英「……あん、ダメですよ。
    こんなところで肩など抱かれては……」

使 者「ウォホン! ゴホン!」

諸葛亮「あ、ああ、すまん。いたのだったな」
使 者「お邪魔なら退室いたしますが」
諸葛亮「いやいやいや。今のは、ついな、つい。
    ……で、何の話だったか」
黄月英「チンチクリンな私では、夏侯淵将軍は
    話を聞かぬのではないか、という話です」
諸葛亮「う、うむうむ、それだ」
黄月英「女であっても、凛として立派な方であれば、
    夏侯淵将軍は聞いてくださるでしょう」
諸葛亮「しかし、お前のその見た目は、
    どう見ても凛としているとは……」
黄月英「私が凛としてるなんて言ってませんよ。
    私の言を、李通どのが代わりに言えば、
    夏侯淵将軍も聞いてくださるでしょう」
諸葛亮「……ふむ、娘の方の李通どのか。
    それならば、夏侯淵将軍も聞き入れよう」
黄月英「では、そのように」
諸葛亮「そうだな。月英と李通を補佐とする。
    後は夏侯惇将軍も一緒に行ってもらおう。
    二人の夏侯氏、そしてお前が行ってくれれば、
    関羽将軍が去っても大丈夫だろう」
使 者「では、私はそのように閣下にお伝えします」
諸葛亮「うむ、よろしく」

使者は退室し、曹操の元へ帰っていった。

諸葛亮「しかし、閣下の元にはすでに、
    武では張飛・許猪などが、
    将帥も張遼・徐晃などが揃っている。
    今になって関羽将軍を呼ばずとも……」
黄月英「閣下なりのお考えがあるのでしょう。
    あなたは今ある駒で戦うしかありません」
諸葛亮「わかっている。
    狙い通り、楚呉の緊張は高まってきた。
    後は洛陽を奪い返し、防衛線を固める。
    まずはこれを成し遂げねばな」
黄月英「いつも言われてる『天下を分かつ策』ですね」
諸葛亮「そう……魏国を保つのが先決。
    それには、洛陽周辺の防衛線は不可欠だ」
黄月英「頑張ってください、あなた。
    私も出来る限り力添え致します」
諸葛亮「すまぬな……苦労をかける。
    ……しばらく離れ離れになるな」
黄月英「でも、すぐにあなたの元に戻ります」
諸葛亮「うむ、待っているぞ。
    ……では、こっちに来なさい、月英」
黄月英「はい」

とてとて、ぽふっ(歩み寄って、抱きつく音)

諸葛亮「あーっもう、激萌えーっ!
黄月英「もう……いつもそうなんですから」

こうして、関羽は濮陽へ向かい、
夏侯淵・夏侯惇・李通・黄月英、
その他数名の将が孟津港へ向かった。

    ☆☆☆

また場所は戻り、洛陽。
孟津の関羽らの異動を知った司馬懿は、
郭淮と今後について検討をしていた。

  司馬懿司馬懿   郭淮郭淮

郭 淮「確かに関羽はいなくなりましたが……。
    かえって、陣容は強化されたのでは?」
司馬懿「見方によっては、そうとも言えますね。
    夏侯淵を大将に、夏侯惇、李通、黄月英。
    他にも夏侯覇、鍾搖など。
    すでにいる張哈、曹休、関索、
    そして田豫隊の田豫、呂範、荀攸……。
    かなり優秀な人材で固めてますね」
郭 淮「な、何をのん気に……。
    田豫隊もすでに近くまで来てるのです。
    このままでは、攻めるどころか、
    洛陽の守備さえも危うい」
司馬懿「たしかに、このままではそうですね」
郭 淮「司馬懿どの!?
    貴女は真面目に考えているのか!」
司馬懿「しかし、孟津を落とすことを考えれば、
    反ってこの方が都合がいい」
郭 淮「ま、まだそんなことを……。
    相手が強くなったというのに、
    どうして落とすには都合がいいのです!」
司馬懿「それは……」

伝 令「申し上げます! 敵が現れました!」
郭 淮「なに、田豫隊か!?」
伝 令「はっ……い、いえ、それだけではなく!
    田豫隊2万、夏侯淵隊3万!
    合わせて5万の部隊が姿を現しました!」
郭 淮「なっ……夏侯淵もか!?
    着任してそうそうに出撃してくるとは!」
司馬懿「いよいよ、この洛陽を奪い返そうと
    本腰を入れてきたということでしょう。
    しかし、これは……」

風雲急を告げる洛陽。
この都を巡り、両軍はいかなる戦いを繰り広げるのか。

[第八十五章へ戻る<]  [三国志TOP]  [>コラム12へ進む]