第五章 月光
銀色のオタマで軽く具が崩れない様に注意を払いながら鍋の中を掻き回す。
中には四角く切られた白い物体(豆腐)と(何切りだか忘れたが)で程よく切られた油揚げが泳いでいる。
ちゃんとダシも取ったので味は保証できる。味の素の方が楽なのだけど……。
早い話、今私はお味噌汁を作っているのだ。隣にはサバの味噌煮の入った鍋……匂い消しの生姜を忘れてはならない。ご飯は炊けているし、昨日の残り(勿論私が作った)肉じゃがもある。
もう一品欲しい所だが、柏木君と楓ちゃんが空腹の為テーブルに突っ伏しているので猶予はない。
それにしても、どうして一人暮しをしているのに柏木君の家事能力は並み以下なのだろう。
オタマでお味噌汁を少しすくい、小皿に移した上で味見……沈思黙考する事数秒……これでよし。我ながら良い味だ。お味噌汁を器に移す。漆塗りの良い品で使うのが躊躇われるのだが、柏木君の許しもでてる事だし使う事にする。
それにしても柏木君のお母さんてどんな人なんだろう。
ふとした疑問……どんな物でも使い手の好みは反映されるのだから上品な人だったのだろう。と飢えている二人の為に思考を中断して、サバの味噌煮を盛り付ける。
取り敢えず、一人分をお盆に載せて移動する。
柏木君の家で全員が揃って食べられるテーブルがあるのはレポート制作の時に使った部屋にしかないので必然的に其処へ行くことになる。
その部屋では案の定柏木君と楓ちゃんがテーブルに突っ伏していた。
「二人ともご飯よ。」
体を起こす二人……その動きはケモノを思わせる。
「楓ちゃんから先にね。」
と言って楓ちゃんの前に置いて、再び台所へ移動する。
無理をして二人分の料理を持ってきた時、楓ちゃんは食べ終えていた。戦慄が走る。
何故、目を離したのは二分程度だ。まさか、これも鬼の力?おそるべし……鬼の力……。
………………………………………
……………………
「ふぅ、食った食った。」
ごろんと後ろにそっくり返る柏木君、少し行儀が悪い。
他愛の無い話をしてする食事、一人暮らしをしてる私には久しぶりの団欒だった。
「ところで柏木君のお母さんってどんな人だったの。」
食事を作っていた時の質問をぶつけてみる。
寝転んだまま柏木君は何か考えていたが、やおら立ち上がり
「う〜ん、一応アルバムがあるから見る?」
と言って後ろの本棚から分厚い三冊のアルバムを取る。
「母さんさ……由美子さんに似てたよ。」
隣に居る楓ちゃんにも見えるように一冊目を開く。
いきなり乳幼児だった柏木君のアップ。しかも、全裸だ。
「自分の息子の裸の写真を最初に持ってくるなんて。」
意外に茶目っ気があったようだ。
「……耕一さん、小さい時も素敵。」
妙にウットリと呟く楓ちゃん。クスッと言う笑い方が抱きしめたくなるくらい可愛い。
淡々とページをめくる。その度に妙にウットリと呟く楓ちゃん。
丁度中学か高校あたり。
ダボダボの黒いズボン(ボンタン)、短めの学ラン(短ラン)……前髪は顔を半ばまで覆うほど伸びていて、隙間から覗く瞳は餓えたケモノの様に鋭い。しかも咥えタバコしてる。
その周辺にいるのも似たような格好の人たち、なかには血で汚れた木刀を持っている人がいた。楓ちゃんと顔を見合わせる。
「柏木君……これは……。」
柏木君は写真を眺めて溜め息を一つ。
「ああ、それね。チームの奴等と撮った写真だよ。少し荒れてた時期があったからね
この前のケンカで使ったのも、この時期に友人から教わった格闘術なんだ。」
意外な事実……柏木君は平平凡凡生きてきた感じがしたのに、
気を取り直してページをめくる。
丁度、アルバムの半ば桜吹雪の舞う公園の中に日傘を差す一人の女性が立っていた。薄緑……私には、そうとしか言いようの無い色だ……の着物を着ていて髪は腰ほどまであるだろうか。歳は良く分からない。
静かに微笑んで立つ、それだけでその女性は存在感があった。
「……由美子さんに似てますね。」
楓ちゃんの呟き。確かに、その女性――柏木君のお母さん――は眼鏡を外した私に良く似ていた。でも、生き写しと言うわけではない。似てる、それだけの事……。
「母さんが死んだ後、由美子さんに会って思わず抱き着きそうになったからね。でも、どれだけ似てても由美子さんは由美子さんさ。」と食後のお茶を一啜り。
ビクン
直後、唐突に柏木君と楓ちゃんが感電したように体を震わせる。
「……耕一さん」
「俺も感じた……どれくらい離れてる?」
「……大体、10キロです……もう、間に合いません」
柏木君の顔が歪む。
「でも、助けないと。」
私の言葉を聞いた柏木君はゆっくりと首を横に振る。
「どれだけ急いでも気配を察知されるから……無理だ。」
柏木君の言うことはもっともだ。相手も鬼の力を察知できる以上、力を解放して急いでも接近したことがばれてしまい逃げられる。
深い沈黙が空間を支配するが沈黙を破ったのは私の一言だった。
「……私に作戦があるわ。」
それは作戦と呼ぶには稚拙すぎるのかもしれない。下手をしたら私も殺されてしまう。
「もしかして、由美子さん」
この状態で出せる案となれば選択肢は限られてくる。柏木君は何か予感したらしい。
「そう、私が囮になるのよ。私が囮になって柏木君達が気配を消して隠れる……。」
ただ、それだけの話だ。でも、うまく行けばそれだけで足りる。
「……危険過ぎます。由美子さん」
楓ちゃんの冷静な声
「でも、それしかないわ。楓ちゃんだとばれる可能性があるし、私にしか……。」
「そんな事言ってるんじゃありません!!」
部屋全体に楓ちゃんの声が響き渡る。
「もし、失敗したら由美子さんは慰み者にされるだけじゃなく殺されるかもしれないんですよ!!」
「それは覚悟の上よ!うまくいけば、鬼を退治できる……。」
覚悟をしたからこそ、こんな台詞が吐けるのだ。
だが、次に楓ちゃんが紡いだ言葉は私をハッとさせた。
「貴方は何も覚悟していません!貴方が死んだ時の周りの人の事を考えていますか!!」
楓ちゃんは深呼吸を二、三回して私を見据える。
「……あの夏の日に……由美子さんを助けた後、耕一さんがどんな想いでいたと思いますか。耕一さんは由美子さんが目を覚ますまで、ご飯もろくに食べずに『俺のせいだ』って
泣きそうな顔して……苦しんでいたんです。覚悟とは耕一さんに同じ苦しみを繰り替えさせることも考えているのか、と言うことです。」
私は、そんな事まで考えなかった。
鬼を退治できればと言う事だけを優先させて柏木君の気持ちまで考えなかった。
「でも、それでも……鬼を放っていたら犠牲者が増え続けるわ。
それは、私みたいな人も増えるって事よ。私は、私みたいに鬼の犠牲になる人を
見たくないのよ……だからお願い。」
楓ちゃんが私を見つめていた。目を逸らしそうになるけれど私は見つめ返した。
少しでも私の本気を理解してもらう為に……。
「……分かりました。」
「楓ちゃん」
思わず楓ちゃんを抱きしめてしまいそうだった。
「仕方ないな……二人とも」
柏木君は苦笑しながら認めてくれた。
「それじゃあ、明日に向けて寝よっか」
そう言い放つ柏木君の顔は少しと言うかあから様に、にやけていた。
カーテンの隙間から淡い月明かりが差し込み部屋にわだかまる闇を溶かしていた。
車の排気音すらしない深夜特有の雰囲気が全てを支配している。
少し顔を上げて私は隣を確認した。少し離れた所にある布団の中で楓ちゃんが寝息を立てているのを確認しつつ、私は布団から抜け出した。
眠れなかったので、お酒を拝借しようと考えての行動で、柏木君とナニかするわけではないので罪悪感も緊張感もない。
私の恰好はというと最近柏木君の家に泊まることも多いのでタンクトップと太股までの
ショートパンツである。色気が少し足りない気もするのだけれど……。
蒼い月明りで満たされたリビングで誰かが日本酒を飲んでいた。
そこには刀を傍らに置き、手酌で日本酒を煽る一人の侍がいた。
遠くを見つめる瞳は悲壮で、何かに耐えているような雰囲気すらあり私はしばらくの間
彼を見つめていた。何となく声を掛けない方がいい気さえしたのだ。
瞬き一つ。その僅かな間に侍は消え、柏木君が侍のいた位置に座り込んでいた。
「あれ、由美子さん……起きてたんだ。」
柏木君が声を掛けてくる。
「柏木君こそ……。」
言いながら柏木君の隣に座り、持っていた椀をもぎ取りお酒を頂く。
「まぁ……色々と考える所が会ってね。」
「どんなこと?」
暫しの沈黙、柏木君が間をあける時は大抵言おうか言うまいか迷っている証拠なので
それを知っている私は少しだけ待った。
「……鬼のことかな……それから親父の事。由美子さんには言ってなかったけど……
鬼の力を制御できる柏木の男子は滅多にいないんだ。」
「……制御できないと?」
「制御できないと……悲惨の一言に尽きる。鬼の本能に振り回されるんだ……
女を犯したい、そして人を殺したいという衝動が日増しに強くなる。最初は耐えられるんだけどね。それでも長くは持たない。そしたら理性が残っている内に自殺するのが残された道さ。もしくは力を制御できた者が殺す。そうして柏木は存続してきた。」
重い言葉だ。
「俺は、また人を殺す。」
柏木君は立ち上がり、淀みの無い慣れた動作で刀を抜いた。
淀みの無い動作……それは柏木君が非日常の世界で生きてきた証なのだ。
そして、私も柏木君と同じ世界に足を踏み入れつつある。
でも、それを私は求めていたのかもしれない。
「それが俺が生み出した業だから……。」
月を背にして呟く柏木君からのびる影は本人のそれではなく、別人の物だった。
そう、それはリビングで束の間見た若き侍の……。
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