第三章 ぬくもり
カーテンの隙間から蒼い月明りが流れてくる。
コーヒーの香りと僅かに他の匂いがする柏木君の部屋で私はベッドに座りながら震えていた。
「私……私……夏に隆山で……。」
涙が止まらない。
悲しいのか、怖いのか……それが分からないほど思考が纏まらない。
「由美子さん」
柏木君の紅い双眸が私を見つめている。
震える私に柏木君が手を伸ばす。
「イヤ!!」
拒絶――柏木君の手を振り払う。
呆然と明らかに落胆した表情――その顔は捨てられた子犬を連想させる。
「ゴメン……俺も人間じゃないんだから、由美子さんを襲った鬼と同族だから嫌われて……嫌われて
当然だよね……鬼の力に目覚めても変わらずにいられると思ったんだ。でも、そんなの嘘だ」
泣きそうな顔……容易く鬼の命を奪い去った柏木君が自虐的に呟く。
「ち……違うの!柏木君……私……汚れてるから、汚されたから柏木君に抱きしめられる資格なんて無いの……ないのよ。」
泣き崩れる。言葉にして全てが取り戻せない気がしたから……。
「由美子さん!!」
柏木君に抱きしめられる。
温かい……このぬくもりを信じられたら、自分だけのものに出来たら、どれだけ楽になれるのだろう。
それは叶わない。儚い想いなのに……自分じゃ割り切れてるつもりだったのに……。
「あそこで……薄暗い部屋で……これが柏木君ならって、ずっと思って。」
「由美子さん……」
柏木君の腕に力がこもる。
「俺は……君の痕を癒したい。偽善かもしれない、ただ自分の……由美子さんを守れなかった罪悪感か
ら逃れたいのかもしれない。でも、由美子さんの為に何かしたいのは嘘じゃないんだ……。」
「なら、お願い……」
言葉の最後は掠れてしまった。
いつか言う筈だった言葉、友達と恋人を隔てる言葉の一つ「抱いて」と言う単語
「うん」
返される返事は肯定の言葉……私は……卑怯者だ。
柏木君が拒否しないと分かっていながらそんな事を頼んでいる。
半ばまではだけたシャツのボタンを柏木君がゆっくりとはずしてゆく。それだけで顔が紅潮する。
ゆっくりと時間をかけて焦らすように服が脱がされて、生まれたままの姿でベッドに寝かされる。
それだけで悲しくなるくらい心細くなる。血で濡れた服を柏木君が無造作に脱ぎ捨てる。
運動不足と嘆く割に引き締まった体、柏木君が冷え切った手で私の髪を撫でる。
次にゆっくりと愛撫を始める。優しい手つき、柏木君の匂い。
誰かを傷つけること無く、生きていきたいと真摯に願った時期がある。
偽善だ。生きて行くのなら……少なくとも他人の事を愛したいと思うなら、傷付け合うことも時にしな
くちゃいけない、あるいは自分が傷つくことも。
「入れていい?」
柏木君はゆっくりとあてがい、私は二度目の痛みを感じる。
初めては理不尽に奪われた。
二度目は……これは自分で望んだこと。
「痛く……ない?」
紅い双眸が私を見つめる。あの鬼とは違う優しい光の宿る柏木君の瞳
見つめ合い、切なくなり柏木君の首に手をまわす。
柏木君のぬくもり、彼の体温
「大丈夫だから……。あのね、柏木君……迷惑だと思うけど……好き……。」
紅い双眸が私を見つめる。
「俺も好きだよ……由美子さんが好きだよ……初めて会った時から。それに俺は好きじゃなければこん
なことしないよ」
蒼い月明りが満ちる部屋で幾度となく交わり、私は柏木君の温もりだけを感じていた。
そして、朝
2
カチカチと規則的に時計の針が時を刻んでいる。
ゆっくりと瞼を開いて寝ぼけた頭で現状を把握して……柏木君とあったことを思い出して一気に顔が
紅潮する。
僅かに残る疲労を押して体を起こす。当然の事ながら裸だ。シーツに擦ったらしく背中がひりひりした。
「おはよ、由美子さん」
狭いベッド……体を密着させるようにして柏木君が寝そべっている。煙草なんて吸っていたら恰好良か
ったんだけど、残念ながら咥えているのはポッキーだ。
瞳の色は普段の黒……こげ茶に近い……に戻っている。
「腕もう治ったんだ……」
かなりの重傷だったはずなのに、傷の痕跡すら見出せない。これが鬼の力なんだろうか?
「あまり、鬼の力は使いたくないんだけどね……でも、まだ鬼が居る。それも雑魚じゃない。
本当の鬼だ。」
深刻な声……顔にも笑みが無い。柏木君がテレビのコントローラーに手を伸ばしてスイッチを押す。
ブッ
『本日未明、×○公園内で三人の男性の遺体を散歩中の主婦が発見しました。遺体は損傷が激しく、
身元は今の所分かっていません。専門家は大型の肉食動物が原因と……。』
先ほどまで紅潮していたのに今や蒼白だ。
「でも、鬼とは決まって……」
全て言い終わる前に柏木君が口を開く。
「いや、鬼は自分の意識を……う〜ん、今風に言えばテレパシーみたいなのが使えるんだ。
だから、俺も奴の視点で起きた事を見てるんだよ。」
「でも、きちんと制御してるんだったら……」
「残念ながら、奴は……命に炎を見るため狩りをしたがっている。」
絶句……命の炎?狩り?
「あぁ……由美子さんは十分知る権利があるから一から説明するよ。一からね。」
既に私が知っている隆山の鬼伝説の足りない部分を柏木君が付け足す。
鬼と呼ばれる存在が異星の民であること、柏木家が二郎衛門の末裔である事、命が失われる時そこで命
の炎が散ること。にわかには信じられない話だったが、柏木君が変身している所を見ただけに信じない
わけにはいかない。
「柏木君……いまの話を聞く限り、鬼……エルクゥにはテレパシーみたいなのが使えるのよね?
なら、私と柏木君が昨夜したこと楓ちゃんにばれてるんじゃない?」
あから様に顔が引き攣るが、覚悟していたのだろう思いの外取り乱さない。
「まぁ……ね。でも、当面の問題は鬼をどうにかしないと」
そう差し込む朝日の中で呟く柏木君は決意を固めた一人の若武者の様で……口では言い表せない
くらい恰好良かった。ただし、額から垂れ落ちる一筋の汗が無ければもっと良く見えた事だろう。
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