第二章 鬼
普通、酒場は大通りに面して密集しているものだが柏木君の行き付けの居酒屋は少し離れた所に在った。
お店の名前は『二郎衛門』……隆山出身なのかな……未だ準備中の札が掲げてある居酒屋の立て付けの
悪い扉を柏木君はゆっくりと開けた。
外見同様、中は小奇麗に整理されていて上品な印象を受けた。
「おばちゃん、久しぶり」
少し照れたような笑みを浮かべながら、柏木君はカウンターの中に居る割烹着姿の女性に言った。おば
ちゃんと言うのは失礼だ。どうみても彼女はおばちゃんと言う歳には見えない。多く見積もっても三十
代前半、顔に浮かんだ柔らかい笑みは『お母さん』という感じだ。
「あら、耕ちゃん!」
『耕ちゃん』などと呼ばれて柏木君は『まいったな〜』と言う顔を浮かべたが、すぐにカウンターに座
った。私も少し遅れてついて行く。店内には僅かに金木犀の香りが漂っていた。
「こっちの女の子は耕ちゃんのコレ?」
おばさんは小指を立てながらにこりと笑う。恋人?というジェスチャーである。
「いえ!そんな、だ、大学の同級生です!!」
私は顔を真っ赤にして慌てて否定する。大体、柏木君には楓ちゃんと言う恋人が居るのだ。
「あら、あら、否定されちゃったわね。」
おばちゃんはマイ・ペースにニコニコ微笑んでいる。
「今日は久しぶりに耕ちゃんが来たから、貸し切りにしようかしら?」
私は口に含んでいた日本酒を吹き出してしまった。日本酒が気管に流れ込み、事体が悪化する。
ゲフゲフと何度か、むせてやっと平静を取り戻す。
「そんなに驚かなくていいよ、由美子さん。おばちゃんは完全に趣味で居酒屋の仕事してるんだから
さ。」
余程、むせたのが面白かったのか柏木君の口元は笑いを堪えるかに様に歪んでいる。
「と言うわけだから遠慮しないで飲んでね。」
「私、そんなにお酒強くないんだけど……」
そういうおばちゃんの手には一升瓶が握られていて、柏木君は私の手に無理矢理コップを押し込もうと
していた。もはや、逃げる事は叶わない。
宴は深夜にまで及び、空けたお酒は日本酒五本に達した。それでも、二人は酔っている気配が感じられ
なかった。どうしてだろう?
よろよろと足元がふらつき、熱に浮かされたように思考が纏まらない。柏木君に肩かりて何とか歩いて
いる、と言うのが今の有り様だ。
レポートを書いていた時より遥かに近い距離だ。普段の私なら意識しすぎてしまう所だが、今は酔って
いるので意識しない。と言うか余裕がない。
「案外、柏木君って体力あるんだね。運動不足だって言ってたから少し予想外かな。」
耳元に少し甘えた声で囁く。柏木君はそういった経験が無いのか真っ赤になる。無理矢理、お酒を飲ま
せたお返し。柏木君は時々妙に初心な所があったり、すごく落ち着いた所もあったりする。つかみ所が
無いって言い方適切かもしれない。
そんな事を考えながら、秋の冷たい夜気の中を歩いているうちに私たちは人垣に遭遇した。二十人くら
いの人が見物をしていて「止めろよ」とか言い合っている。
「何があったのかな?」
「ケンカだよ。肉を叩く打撃音と風に血の匂いが漂ってる。」
柏木君は理由まで付けて即答する。見えない筈なのに良く分かるな柏木君は
「人数は四人、三人が一方的に殴りつけているって感じかな?」
柏木君の声は相変わらずのんびりとしている。
「じゃ、止めないと!!」
私には力がない。非力だ……けれども暴力を振るわれている人は見捨てることが出来ない。我ながら損
な性格だとは思う。
「でも、俺達には……関係ないよ。」
冷水を浴びせ掛けられたように頭の芯が冷める。
「柏木君が……そんな人だなんて!!!」
勝手な思い込みだって事は分かっている。確かに私達には関係がない話だ。至極真っ当な理由だ。
それでも柏木君を睨み付けて人垣の分け入る。
酔った身には辛かったけれど、怒りがそれに勝っている。
人垣を抜ける。そこでは茶髪、鼻ピアス、メッシュの三人が中学生位の少年を一方的に殴っていた。
「アンタ達!!やめなさい!!!」
ひねりの無い台詞だが、三人の注意を引くことには成功したらしい。
茶髪が殴るのを中断して、こちらに来る。瞳はドロリ濁っていて麻薬中毒の患者を連想させる。
茶髪が私の胸倉を掴んだ。その時にボタンが弾け、半分ほどまで胸が露になる。恥ずかしくて座ってし
まいそうだけど震える足で立ちつづける。茶髪は無表情のまま、腕を振りかぶった。その手にはメリケ
ンサックが鈍く輝いていた。眼鏡割れるかな?なんて場違いな事を考える。怖かった……泣きそうなほ
ど怖かった。でも、私は目を逸らさない。これが私の意地だ。
ぶつかる!!……と思ったが茶髪の腕は何時まで経っても振り下ろされなかった。
「由美子さん……危ないから無茶しないでよ。」
『まいったな〜』って感じの笑みを浮かべた柏木君が男の手首を掴んでいた。たいして力を加えている
ように見えないのに茶髪の腕は微動だにしない。
「友達にまで手を出されたんじゃ見過ごせないな。」
柏木君の顔から笑みが消え、無表情になる。無表情……いや、違う。無表情以外の何かだ。私はその表
情が何なのか分からなかった。けど、ひどく非日常的な表情だった。
「失せろ……さもなくば殺す。」
手を放す。茶髪の顔は恐怖で引きつっていたが、逃げる気配は見受けられない。
「アアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
絶叫しながら、茶髪が殴り掛かり、柏木君は茶髪の拳をバックステップして躱す。大振りだった為に、
上体が泳ぎバランスを崩した茶髪の顎を柏木君は蹴り上げた。
ゴキッ
鈍い音が響き、虚空に血の軌跡が描かれる。
「ケンカなんてしたくないんだけど……」
残った鼻ピアスとメッシュはナイフを取り出して構えていた。柏木君は呆れたような顔を一瞬だけ浮か
べる。けど、ナイフに対して脅えたようには見えない。
ザッ
柏木君は一瞬にして間をつめ、半回転しながら鼻ピアスの腹部に回し蹴り。反応の出来ず腹筋を締めら
れなった鼻ピアスは嘔吐しながら地面を転げまわる。
「畜生……」
残ったメッシュが闇雲にナイフを突き出すが柏木君に触れることすら適わない。メッシュが思い切りナ
イフを突き出して伸びた腕を柏木君は抱える。ナイフが天を突くような格好になった腕を抱えたまま、
柏木君は軽く飛んで尻餅をつく。
ゴキィ
骨が折れたような鈍い音が響く。
「アアアアアアアアアア!!!」
メッシュは暴れて逃げようとするが逃げられない。
柏木君は立ち上がり、私のほうに歩いてくる。
「由美子さん……いくよ」
柏木君は私を抱き上げると人を抱えているとは思えない速さで走り始めた。
「柏木君……強いんだね」
人通りの少ない路を並んで歩いて行く。あれから、十分くらいが過ぎていたけれど少し気まずい。何し
ろ柏木君を怒鳴りつけたのだ……。その沈黙を破るように柏木君は話し始める。
「由美子さん……殴られている人を助けようとする由美子さんの行動は正しいと思う。常識的に考えれ
ば助けるのが当然だけど……だけどね、由美子さん……由美子さんは女の子なんだから無茶しないで。
俺がいつも助けられるとは限らないから……。」
「うん……。」
「それに……あの茶髪はキケンだ。」
声のトーンが低く低くなる。
「あれは人間の目じゃない。ケモノの目だ。」
私には目を見ただけで人柄を判断するなんて出来ない。けど、柏木君の言葉は正しい気がした。
「そして、少しケモノと違うのは……報復する所だ。出てこい!」
柏木君が後ろを振り向く。
つられて見た先には、あの茶髪がいた。
だらしなく開かれた口からは涎が止めど無く流れ、瞳は先ほどよりも更に狂人じみて見える。
「クヒヒヒ、殺……殺してててて……やるるるるるるるるる」
その言葉が引き金になったかのように茶髪の体が変化し始めた。
瞳が紅く染まり、膨張した筋肉によって服が内側から裂ける。皮膚が黒く染まり、額から角が生える。
その姿は鬼……鬼だった。
「由美子さん……五秒で百メートル走れる?」
小声で柏木君が尋ねてくる。化け物じゃないんだから出来るはずが無い。
「む……無理よ」
沸き上がる恐怖のため、立っているのがやっとだ。その上、走るなんて出来るはずが無い。
「それじゃあ、」
次の案を提示しようとした柏木君の体がぶれて、後ろへ吹き飛ぶ。玩具のように柏木君は二度、三度、
地面に叩き付けられて長い血の帯を作ってから止まった。
ヒュウウウウウウウ
風が吹き、そこには鬼が立っていた。
「まさか、あの一瞬で……。」
一瞬で間合い詰めて柏木君を殴るなんて……でも、そんなことが分かっても。
鬼が笑う。鬼を見た時から頭痛が止まらない。
私は
なにか……
何か大切なことを……
忘れて……
突然……視界が白く染まる……
笑っている……ワラッテイル。
「これで俺の仔を……」
オレノコヲ……
動かない手足。
どんなに泣いても、陵辱は止まらない……
「だったらイくな」
虚ろに、思考の糸がほつれて考えが纏まらない。
……柏木君だったら良かったのに……汚された。
もう、会いたくない。
助けて……助けて柏木君。
「由美子さん!!」
温かい腕……柏木君の温もり……でも、私は汚されて……。
たすけ……て
「イヤアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」
頭を抱えて私はしゃがみ込んだ。
思い出してしまった、あの忌まわしい夏の日を……。
壊れたくなくて記憶を閉ざして、柏木君との関係を壊したくなくて記憶を閉ざして闇に沈めた記憶を
鬼は笑っている。
また、私は同じ事を。
「待てよ……」
鬼が声に反応して振り向く。
血の帯の先に柏木君がいた。右半身が朱に染まり、アスファルトで肉が削られ傷を負いながらも柏木君
は立っていた。
「由美子さん……守るから……あの時みたいに傷つけさせない。」
柏木君の瞳が紅く染まる。それは鬼と同じ、人外の者の証。
澄んだ双眸が闇に浮かび、鬼を睨んでいる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
走る。
闇の中を柏木君が鬼を狩るために
走る。
鬼が脅威をうたんとして。
勝負は呆気なくついた。
鬼の背から柏木君の腕が生えていた。辺りに血が飛び散る。
腕をズルリと引きぬいて手にしていた肉塊を投げ捨てる。投げ捨てられた肉塊は蠢き続けていた。
引き抜かれても動く器官は私の知識の中では一つしかない心臓だ。心臓は細胞自体が脈動するため体外
に出ても暫くは動きつづける。と一般教養の授業で習った。
「由美子さん……大丈夫?」
蒼月を背にして柏木君は佇んでいた。
その姿は血塗れにもかかわらず、美しい。それに比べ私は汚れている。
「柏木君……私……あの夏に隆山で……鬼に……。」
自分の体を震える腕で抱きしめる。
「由美子さん……行こう。」
「でも、私は柏木君に抱きしめられる資格なんて……」
柏木君は強引に私を抱き上げると大地を蹴り……跳んだ。
血に濡れた腕の中で私は、言いようの無い安心感を得ていた。
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