第一章 悪夢再来
「柏木君……私、もう駄目……。」
互いに吐息がかかるほどの距離で私は柏木君に呟いた。
決して広いとは言えない薄暗い部屋の中で何時間そうして過ごしていたのだろう。
柏木君はずっと手を動かし続けている。
もう、体力は既に限界を超えていた。狂おしいばかりの欲求が体を苛んでいるのが分かる。
それでも、私達は行為を止める事が出来ずに居た。
「由美子さん……もう少しだけ頑張って……後少しなんだ。」
いつも浮かべている優しい笑顔がそこにはなかった。そこに浮かんでいるのは疲れきった別人のような
表情、気持ちが良く分かる。私も同じ気持ちだからだ。
「でも、駄目……限界よ。」
手が、指が、視界までもが震える。
欲求に従いそうになりながらも、ゆっくりと私はドロドロした液体を嚥下した。何度も何度も繰り返し
嚥下してきた、その液体が喉を通る度にビクリと体が痙攣したように震える。
……駄目、もう駄目なの……
どんな手段を使っても人が本能から生まれる欲求に耐える事は難しい。理屈ではない。
生き物が生きてゆけるのは本能から発生した欲求に従っているからだ。それに抗うのは生きる事を放棄
する事に等しい。
そう、私は良く耐えた。普通の人が一生に一度在るか無いかといった低い可能性で起きる出来事を体験
し、まだ耐えている。
「柏木君……もう駄目なの……。」
自分でも驚くほど甘えた声が出た。もう楽になりたい。この甘美な誘いを拒み続ける事は出来ない。
「お願いよ……柏木君……」
懇願、哀願、言い方は色々在るだろう。どれでも良かった、願いが叶うならば。
「由美子さん……くっ。」
苦しげに柏木君はうめき、震え
「終わった。」
と呟いた。
「由美子さんのお陰だよ。」
柏木君の周りには大量の本の山が存在していた。どれも図書館の印が付いている。
手元にはレポート用紙の束。
結果、導き出される答え。
「これで進級出来る。」
何のことはない。柏木君は出席日数の不足で必修授業の単位を落としていたのだ。
進級させる為に教授が出した課題がレポートの制作で……それを終わらせるべく三日間の連休を利用
して私たちは作業を行っていたという訳だ。
ただし、時間が無くて徹夜の作業が続いたという、それだけの話。
「お……やすみ……。」
呟いて私は眠りについた。
とろりと蕩けるような快楽が身を包んでいた。
夢。夢を見ていた。
「あんたは殺り過ぎたんだよ。」
氷のように冷徹な響きを持った言葉で柏木君は男に対して呟いた。男は二十代前半といった所だろうか。
眼鏡をかけ地味な背広を着こなす姿は真面目なサラリーマンの様に見える。
そう誰が信じるだろうか、この男が素手で人間を殺しつづけていたなど……。
「だから、あんたが更に多くの人間を手にかける前に殺す。」
男は俯きながら、肩を震わせていた。泣いているのではない。込み上げてくる笑いを必死に押さえてい
るのだ。
「殺すだと!!貴様の様な何一つ力の無い若造が俺を殺せるわけないだろう。」
男の瞳は血の様に紅く、瞳孔が縦に裂けていた。
目にも止まらないスピードで男が走る。
一瞬にして間合いを詰めて、人間のものではなくなった手……鬼の手を柏木君に振り下ろした。
部屋の中に一瞬だけ閃光が煌き
ゴトリ
フローリングの床に黒いものが落下した。
「ガァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!」
男が喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。叫び声が合図だったかのように男の手首から血が吹き出した。その
血が壁を染めるのを見て私はようやく分かった。先ほど落ちたのは男の手だったのだ。だが、何も持っ
ていなかった柏木君が手を切断できるはずが無い。
不審に思い視線をずらすと柏木君は古ぼけた日本刀が握っていた。束はボロボロで今にも崩れ落ちそう
なのに刀身には僅かな錆さえ認められない。私はその刀には見覚えがあった。
雨月寺で老住職に見せてもらった次郎衛門が使っていたという刀だ。その刀を何故柏木君が?
「叔父さん……せめて安らかに眠ってくれ。」
柏木君は刀を振り下ろした。
紅く染まった柏木君の瞳から一滴の涙がこぼれ落ちたのを見た気がした。
開け放たれた窓から時折、涼風が吹き込んで髪を揺らす。
夏が過ぎて、季節は秋……奇妙な寂寥感に捕らわれたり、何となく落ち葉を見つめたりする季節だ。
「で、由美子〜。それから柏木とどうなの?」
最近、改装された学生食堂で少し遅い昼食をとりながら私は親友の茜と話していた。同い年の割に茜は
大人びた印象の持ち主で、有名なブランドを好んで身につけるため遊び人だと良く誤解されるが、本当
は親身になって相談に乗ってくれる親友である。
「う〜ん……進展なし」
とジュースを一啜り。先日、飲みすぎたコーヒーのせいで胃が痛い。
「そう言えば、由美子……記憶戻った?」
思い出した様に茜が言ってくる。
「まだ……思い出せないの。」
そう、私の記憶には一部失われた箇所が在る。夏に隆山を旅行していた記憶だけがすっぽりと抜け落ち
ているのだ。確か隆山に旅行に行き様々な所を散策して、その後……
ズキンと頭に激痛が走り、思わず顔をしかめる。
「目が覚めたら病院のベッドで、柏木君が隣に居たのよね……。」
「だったら、柏木に聞けば良いんじゃない?」
それが一番なんだろうけど……何より恐怖が在った。
失われた空白の時間に何が起きていたのか……あの時のことを思い出そうとすると激しい頭痛が起き
る。無意識の内に記憶を抑圧しているのだろう。そのまま思考の迷路に陥りそうになった時
「由〜〜〜〜美〜〜〜〜〜子〜〜〜〜〜〜さん!!!!」
食堂に大声を響かせながら、柏木君が走って来た。
「噂をすれば、なんとやら」
茜は呆れ顔だ。
「レポート付き合ってくれてありがとう。」
柏木君は私に微笑み掛けてくる。
「あのさ、お礼なんだけど晩飯奢らせてよ!あ、茜さんもどう?」
「柏木の財布が可哀相だからパス」
そう言いながら茜はにやりと笑う。
「じゃ、大した所じゃ無いけど」
そう言いながら柏木君は満面の笑みを浮かべていた。
追記……柏木君に連れて行かれたのは居酒屋だった。
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