残された痕

written by アユム

序章 宿業の始まり
 
吐き気がする程、濃密な血の匂いが漂う戦場を月が淡く照らし出していた。
鎧ごと引き裂かれた人の無惨な屍と人を凌駕する膂力と戦闘能力をもった鬼の屍で埋め尽くされた大
地が、まるで地獄絵図の様に眼前に広がっている。
地上の様子が凄惨すぎる為か、今宵の月は恐ろしいほど美しい。幾重にも重なる薄雲から見える月を眺
めている内に、一人の少女の顔が脳裡を過ぎった。
「・・・エディフェル」
乾いた声で名を呟く。
覚えている。あの日、この腕の中で徐々に失われて行ったエディフェルの温もりを香りを
あの儚げな眼差しを……忘れられる訳がない。彼女と愛し合った日々を、幸せだった。
ただ、純粋に愛してくれた彼女の事を……失われた瞬間の絶望を、復讐と言う炎に身を委ねなければ狂
っていただろう自分の事を……忘れられるはずが無い。例え、どれほどの月日が過ぎ去っても。
「次郎衛門様……。」
脇から副隊長のアダチが話し掛けてくる。
後ろには二十人程の部下が立っていた。鬼との死闘を潜り抜け辛うじて生き残ったものの全員が傷を被
っていた。隊の中でも一、二を争う腕を持ち副官的な立場にいるアダチも例外ではなかったらしく脇腹
から血を滲ませている。
「後は、あの鬼だけです。」
アダチが指差す方には一匹の鬼が居た。
並みの鬼とて人と比べれば、巨躯と言っていいのだが目の前に居る鬼は明らかに二周り大きい。加えて
体から発する気配が全然違う。
「あの鬼一匹に殆どのものが殺されています。」
確かに、アダチの言葉を証明するように鬼の体は返り血で紅く染まっていた。
「確かに別格のようだな。」
俺はリネットから借りた刀を鞘からゆっくりと抜き払った。
蒼い刀身を持つ、まだ銘すらない俺の刀……全てが終ったら寺にでも預けよう。俺よりは丁寧に扱うは
ずだ。
「アダチ…あいつは俺が殺す。手を出すなよ」
そう言い残すと俺は閃光の如き速さで鬼との間合いを詰め、そのまま相手の脇腹を刀で凪ぐ。だが、相
手は僅かに後ろに跳躍して躱していた。
本気の一撃を容易く避けられた事に戸惑ったが即座に刺突に移る。しかし、鬼は神速とも言える速さで
俺の脇に回り込み鋭い爪を背中目掛けて振り下ろしてきた。爪が体に当たる寸前に体を捻り避ける。そ
れでも爪によって着物が引き裂かれた。
鬼の膂力と鉤爪の前で鎧など何の役にも立たない。むしろ、動きを阻害するだけ邪魔だ。鎧を着ていな
かったお陰で今の一撃を避ける事が出来たのだが、さすがに相手の攻撃を防ぐ為の手段が躱すしかない
と言うのは辛い。
「名前を聞いておこう。」
俺はニヤリと口元を歪めた。
「ダ、リ、エ、リ。」
『ダリエリ』という名前だけは知っていた。鬼の中で最強の力を有する者、他の鬼が雑兵ならば此奴は
将といった所だろう。さすがに人の姿のままでは勝てないか。
即断即決……ダリエリを見据えたまま俺は鬼の力を解放した。
盛り上がった筋肉によって着物が内側から弾け飛び、五感の全てが人間を遥かに超えたものへと変化す
る。一瞬の間に俺は鬼へと変じていた。部下達にも見せたことはあるが、さすがに慣れる物ではないら
しい。後ろから脅えた気配が伝わってくる。
それを無視してダリエリと睨み合う。驚くほど隙が無い。
一体、どれほどの間睨み合っていただろうか。気が付くと地平線の彼方から太陽が出始めていた。互い
の実力は拮抗し、膨れ上がった緊張感は些細な切っ掛けが在れば弾けるだろう。その時、一陣の風が吹
いた。微かに葉が擦れ合うような音が耳に届き、俺達は走り始めた。人知を超えた速さによって周囲の
大地が次々と抉られる。
視界が狭まり、音が聞こえなくなる。
人の身では決して到達できない、神の領域で俺達は刹那の瞬間交錯した。ほんの僅かな瞬間……辺りが
白く染まる。
ダリエリが口元を歪めて勝利の笑みを浮かべ、俺は膝を突き血を吐いた。
脇腹に人の身であれば致命傷になるほどの傷が出来ていた。
「次郎衛門様!!!」
部下達が俺の名を叫び、ダリエリの方を睨む。
叶わぬまでもせめて一太刀と言った所だろう。
「俺の勝ちだ。」
俺の呟きと同時にダリエリの命の炎が散る。
炎と呼ぶには激しく、刹那の瞬間に全ての力を使い果たして咲き、次の瞬間には散る儚すぎる命の華だ。
鮮やかな紅い命の華を俺は見た。
沸き上がる満足感、そして虚脱……復讐は終った。
「もしも、再びまみえる事が在るのなら……。」
それから、何を呟いたか覚えてはいない。

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