夜の柏木家。
居間には、千鶴以下、梓、楓、初音、耕一の5人が揃っていた。
「それでは、これより夏の連続殺人事件、今回の暴力団事務所の大量殺人事件、
そして今回のキーパーソン柳川祐也氏についての説明をしたいと思います」
どこから出したかわからない黒板を背にし、千鶴は話し始めた。
……自宅だというのになぜかスーツを着込んでいる。
「梓と初音には話してなかったことがいろいろあって、それを今回説明します。
耕一さんと楓も、おさらいという意味で聞いてもらいますが。
……質問などがあったらその都度聞いてください」
その言が終わるや早速、梓が手を挙げた。
「千鶴先生! 早速質問です!」
「はい、梓さん。なんでしょう」
梓はニコニコ顔で、質問を投げかける。
「なんで千鶴先生は料理が上手くならないんですか?」
ゴン。
「関係ない質問は却下です。いいですね」
「ふ、ふぁいー」
頭に鉄拳を落とされた梓は、痛みを堪えながら返事をするのみであった。
かくして、千鶴先生の即席講座は幕を開けた。
まず、柳川祐也のプロフィールについて説明がされた。
現役の刑事で、皆の祖父である柏木耕平の息子であること。
彼が柏木家を憎んでいることなど。
そして、夏の連続殺人事件。
エルクゥの意識が目覚めた柳川が起こしたものであること。
そして、耕一と楓が彼を殺しかけたが、とどめは刺さなかったことを説明した。
その事件で後輩の日吉かおりが誘拐・監禁されていた梓は、そのことに色めきたった。
しかし、耕一になだめられ、またかおりが今は全く元気であることから、
すぐ落ち着きを取り戻した。
そして、今回の暴力団事務所の大量殺人事件。
現在、確たる証拠があるわけではないが、まずエルクゥの仕業であろう、
ということで、柳川を疑っていることを説明。
最後に、今は証拠集めと柳川の監視をすべきである──
という千鶴の主張で、説明は終了した。
「……信じられない」
初音は、ボソ、と呟いた。
「でもね初音、彼が人を殺してるのは事実なのよ」
なだめるような口調で、千鶴はそう告げた。しかし、それに首を振る初音。
「違うの。夏の事件は、千鶴姉さんの言う通りなんだと思う。
でも……今の柳川さんが、人を殺すとは思えないんだ……」
それを聞いて、眉をひそめる梓。
「初音……あんた、やけに柳川の肩持つわね」
やはり、かおりのカタキ、というイメージがあるのか。
梓は柳川にいい印象は持っていない様子だ。
「肩持つとか、そういうんじゃなくて。
実際に会って、何考えてるか判らないところはあるけど……
でも優しい人だって思えたから」
反論する初音だったが、耕一がそれに突っ込む。
「初音ちゃんにだけ優しい、ってだけだと思うぞ」
「……うぅ」
耕一の言葉も、それなりに説得力があり、初音はそれ以上は何も言えない。
「どちらにしろ、今日言われた通り、証拠を掴むか現場を抑えるか。
どちらかにしないと、ただの言いがかりにされてしまうわ」
とりあえず千鶴がそうまとめたところで、梓が挙手した。
「はい先生。言いがかりでもいいから、バッサリやっちゃったら?」
その言葉に千鶴は眉をひそめた。千鶴は梓を指差し、注意する。
「梓さん、それではただの野蛮人ですよ。
これだから胸が大きい人はナニだとか言われるのよ」
今度は、その言葉に梓が色めきたった。
「んだとコラァ、ナニって何だよー!
あたしの今の偏差値は結構いいところに行ってるんだぞ〜!」
「偏差値と性格とは比例しません」
「まるで自分は性格がいいとでも言いたげだね!」
「当然です!」
次第に言い合いがエスカレートしてきて、ついに梓が手を出す。
「どの口がそーいうこと言うかー!」
「にゃ、にゃにするにょー」
ビローンと千鶴の口を左右に引っ張る梓。
ボコ。
千鶴の鉄拳が、梓の脳天に直撃。
「殴ったね? 父さんにも殴られたことないのにー!」
「殴られずに一人前の大人になった人がどこにいますか!」
「じゃあ一人前にも二人前にもしてあげるから殴らせろー!」
「私はもう大人です!」
「胸は子供だー!」
「なんですってぇぇぇ?」
2人のやりとりをただ見てるしかなかった耕一・楓・初音。
彼らはついに戦場となった居間から撤退した。
「……はあ、これが話に聞いてた龍虎相討つ、か」
耕一はテーブルを持って廊下に避難。それを手伝う、初音と楓。
「久しぶりだね、千鶴お姉ちゃんと梓お姉ちゃんのケンカ」
初音は苦笑しながら、ゆっくりとテーブルを廊下に置く。
「止めなくて本当に大丈夫なの?」
心配そうに楓に聞く耕一だったが、楓は冷めたものだった。
「……ただ、じゃれあってるだけですよ。
本気でやったら、この家くらい無くなっちゃいますから」
その言葉に絶句する耕一。
「マジ?」
「マジです」
耕一の問いに、真顔で頷く楓。
「初音、もう遅いしお風呂に入りなさい」
楓はしばらく言葉を失う耕一はそのままにして、初音にそう告げた。
もうすでに、遅い時間である。
「あ、うん。それじゃ、お先に」
初音が自室に戻っていくのを見届けて、楓は耕一に再び話し掛けた。
……ただし、その表情は厳しいものになっていた。
「ところで、耕一さん……。
明日から、柳川さんの方、よろしくお願いします」
「……ん、わかったよ」
耕一が頷いたのを見て、楓は背を向けた。
そして、半ば独り言のように呟く。
「私は、蔵にある書物を調べてみます」
「調べる? 何を?」
耕一の問いかけに、消え入るような小さな声で呟いた。
「雨月山の鬼と……その他の鬼の伝奇について」
それだけ言うと、楓は自室へ戻っていった……。
☆☆☆
翌朝。
昨晩の壮絶なバトルを闘い抜いたはずの梓だったが。
今日もいつものように朝食の準備をしていた。
……顔や首に爪の跡がまだ残ってるあたりが痛々しいが。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
初音の心配の声に、無理に笑顔を作る梓。
「ああ、大丈夫。千鶴姉はこれ以上のダメージ負ってるからな。
今頃は筋肉痛でうめいてる頃さ。へへ、いい気味だよ」
千鶴の部屋。
「う、うぐぉ〜」
ベッドの中からうめき声をあげる千鶴がいた。
朝食後、初音は学校に行く準備をしてから、居間のテレビをつける。
……そこで、初音は信じられない物を見た。
『この被害者が所属している暴力団の事務所は、先日の殺人事件に見舞われた
暴力団の別の事務所であり、また殺され方も同じらしいとの情報です。
以上のことから同一犯による犯行の可能性も高く……』
テレビから流れるニュース音声。
しかし、その内容は初音の耳には届いていない。
初音が釘付けになっているのは、その画面。
そこに映し出されていたのは、先日会ったヤクザの男……
初音の頭を撫でた、兄貴分の男の写真だった。
そして次に、あの時通った町並みが映し出された。
「どうした初音、そろそろ出ないと遅刻だぞ?」
玄関に向かおうとする梓に声を掛けられ、初音はようやく我に返った。
「あ……う、うん、行くよ」
鞄を持ち、立ち上がる。
そして少しテレビを見た後、リモコンを手に取り電源を消した。
……どうやら、彼が昨日の深夜に殺されたらしい、ということは確認できた。
「ほれ、弁当忘れんな」
初音が玄関まで来ると、梓が初音の弁当包みを突き出した。
それを見て、初音はアッという顔になる。
「今日は午前中で終わりだったんだけど……」
「何〜? そういうことは早く言え〜」
今日は初音の高校の終業式だった。授業もなく、午前中で終わる。
「ごめんね、これはちゃんと食べるから」
弁当包みを受け取り、初音は学校へと向かった。
☆☆☆
昼。
「……」
街を無言で歩く柳川。
その少し後ろの方を、怪しい男がつけるように歩いていた。
サングラスを掛け、トレンチコートを来たその男。
ずっと柳川の背後を、つかず離れずの距離を保ちながらついて行く。
……曲がり角の手前で、急に柳川が走り出した。
そのまま、角を曲がり姿が見えなくなる。
「……!」
男も、それを追いかけて走っていく。そして、曲がり角を曲がった。
「おい」
「ぐあ?」
男は驚いた。
走っていったと思っていた柳川が、曲がり角を曲がったすぐ先で
腕組みして立っていたからだ。
「尾行するならもう少し考えてやれ。それにその服装、かえって目立つぞ」
「……ちぃ」
舌打ちしたその男……柏木耕一は、サングラスを取り胸ポケットに入れた。
「そ、そんなことより、大事なのはお前のことだよ。
一体どこへ行くつもりだったんだ? こっちは駅と逆方向だぞ」
「何か勘違いしてないか? 俺は昼食を取りにいくだけなんだが」
柳川は、道の先にあるファミレスを指差した。
制服が可愛いと評判のチェーン店である。ただし、料金は若干高めだ。
「……へえ、制服目当てか?」
「お前と一緒にするな。
あそこのメニューはボリュームがあるからな、よく行くんだ」
柳川がファミレスに向かって歩いていくのを見て、耕一もついていく。
「そうやって油断させて、俺を撒こうってことじゃないだろうな」
柳川の動きに警戒しながら、耕一はそう話し掛けた。
「心配性だな。何なら、同席して一緒に食事するか?」
「……いいのか?」
「おごりはしないぞ」
「ちっ……まあ、お言葉に甘えて俺も飯にするよ」
そうしてファミレスの中に入っていく2人。
昼時にしては席が空いていて、すぐに座れた。
ウェイトレスに向かってオーダーする柳川。
「この金魚鉢プリンパフェを頼む」
「ブッ」
耕一は思わず、口にしていた水を吹き出した。
幸い、こぼれた水の量は大したことはない。
「どうかしたか?」
真顔で訊ねる柳川に、耕一はむせながら聞き返す。
「ゲホッ……お前、金魚鉢プリンパフェって……」
「何だ、人の好みにケチをつける気か?」
「そういうわけじゃないけどな……。
まあいいや、俺はハンバーグランチ、サラダ付きで」
オーダーを受けたウェイトレスが奥に消えていった。
「しかし食えるのか、あの量を?」
耕一がそう聞くのも無理はない。
金魚鉢プリンパフェは、大人でも完食するのが難しいほどの量だ。
今は15分で完食するとタダになるキャンペーンをやっているらしい。
だが、それを達成した者はまだいないという。
耕一の心配する声を、柳川は一笑に付した。
「ふ、俺は今まで、食事で食べ残したことはない。
食べ物を粗末にすると、バチが当たるからな」
それを聞いて感心する耕一。
「へえ……それに関しちゃ俺も同意見だな。
俺は母親に厳しくしつけられたんだが」
「ほう。じゃ、今頼んだ物も全部食えると」
「それくらいはあたりまえだろーが」
「そうか、それは良かった」
そう言って、柳川は立ち上がった。
「どこに行くんだ?」
奥に向かおうとする柳川を見て、問う耕一。
「どこって、決まってるだろう」
奥を指差す柳川。その指指すところを辿ってみると、
厨房への入り口の近くにある、トイレの表示が耕一の目に入った。
「ああ、なるほど」
「じゃ、ちょっと行ってくる」
手を挙げて、柳川は奥へと入っていった。
5分。
「結構長いな……大のほうなのか?」
10分。
「おいおい、下痢でもしてるんじゃないだろな」
15分。
「お待たせしました、金魚鉢プリンパフェです」
耕一の目の前に、金魚鉢にテンコ盛りになったパフェが置かれた。
「あ、いや、それは連れの分ですから」
柳川が座っていた席を指差す耕一。しかし、ウェイトレスは笑顔で答えた。
「いえ、そのお連れの刑事さんからあなたに、と言付けられてますが」
「は?」
一瞬、何のことか判らなかった。
「ええと、連れはどちらに?」
「先ほど、緊急の用が出来た、と言われまして。
それ厨房を通りまして、裏口から出ていきました。
……私、初めて生の警察手帳を見ましたよ〜」
それを聞いて、耕一は愕然とした。
「や、やられた……」
「では、15分で金魚鉢プリンパフェを完食できるか。
計測を開始致します」
ウェイトレスがストップウォッチを手にしている。
15分完食タダキャンペーンのイベントを始めようとしているのだ。
「い、いや、あの」
断ろうと思った耕一であったが、すでに周りにギャラリーが集まってきていた。
「おや、金魚鉢に挑戦するんだって?」
「すごいねー、ママ」
「さっき、この兄ちゃん『残さず食う』とか話してたぜ」
「ガタイもいいし、こりゃ期待できるかもな」
「それでは、スタートです!」
ウェイトレスの合図が響く。
もはや耕一は、後には引けなかった。
「あいつ……絶対殺す!」
耕一はものすごい形相、そしてものすごい勢いでパフェを食べ始めた。
☆☆☆
昨夜の殺人から、伊沢の駅は午後になってもほとんど人がいなかった。
先ほど到着した電車からも、降りたのは一人きりだ。
その一人……初音は、意を決して駅の外に出る。
目指すは、昨日の殺人現場。
駅からそれほど離れていないそこには、パトカーが何台も止まっていた。
全車、全て赤色灯を回している。
周りにはマスコミの車が囲むように止められていた。
しかし、野次馬は少ない。今回、ヤクザが絡んでいることと、
未だ犯人が捕まっていないことが大きな要因だろうか。
初音は、その野次馬の間を通り、現場へと近づく。
やがて、ロープが張られた場所が見えた。
すでに、遺体は片付けられたようで、チョークで描かれた人型が
アスファルトの上に残っているだけだった。
「やっぱり、何もない、かぁ……」
初音は一人呟いた。
……ここにくれば何かが判るのではないか。
そう思ってきてはみたが、結局何も収穫は無かった。
学校で友人の島原に聞いた話だけで、十分すぎるほどだった。
それでも、しばらく歩き回ってみる。……だが、やはり何もない。
そうこうしているうちに、日が山の陰に沈む時間となった。
「はい、皆さん! 日も暮れますし、ここらへんはまだ危険です!
早くご自宅にお戻りください〜!」
若い警官が、そう警告しながら野次馬を散らす。
初音も、それによって現場から遠ざけられてしまった。
「しょうがない、帰ろう」
初音はそのまま駅に戻り、電車を待った。
少し待って、電車が到着した。
初音は電車に乗り込み、発車を待つ。
何気なく、駅の改札を見ていると、そこに見知った顔を見つけた。
「……えっ?」
柳川だ。改札を通り、ホームへと入ってくる。
彼の方も、電車の中の初音を見つけたようだった。
その時。
ぞくり。
初音の背に、悪寒が走った。
「……!」
初音はそのまま、柳川に背を向けた。
数秒後、電車の扉が閉まる。
柳川は結局乗れなかったようで、車両の外で初音の方を見ていた。
……初音は、彼の方を見れない。
何か、得体の知れない恐怖を憶えていた。
電車が走り出しても、しばらく動くことが出来ないでいた。
「……さっきの、何……?」
しばらくして、初音は駅に降りた。
すでに、完全に日が暮れて夜が訪れていた。
時間的には他の社会人の帰宅時間と重なったらしく、
他にも何人か乗客が降りたようである。
初音は漠然とした不安を抱えたまま、駅を出た。
家までは、そう遠くない。
少し早足で、帰り道を通っていく。
……だが。
ぞくり。
また、悪寒が走った。
……初音は、足を止める。
その視線の先の闇には、スーツ姿の男が立っている。
……男は、じっと初音を見つめていた。
初音はきびすを返し、走り出す。
先ほど出た駅へと戻るつもりだった。
そして、電話をかけて姉や耕一に助けてもらうつもりだった。
だが。
「ひっ……」
男が、また初音の視線の先に現れた。
黒い闇の中ではあるが、先ほどの男と同じだと判った。
初音は、また方向を変えて、今度は公園の方に向かった。
公園ならば場所も近く、公衆電話のボックスがある。
走って走って、公園の入り口へとたどり着いた。
もう倒れそうなくらい苦しかったが、何とか我慢して、公園に入る。
そして、公園の中心にある電話ボックスへと向かう。
……ようやく、電話ボックスが見えてきた。
「はぁ、はあ、ふぅ」
息が完全に上がっている。もう、これ以上は走れない。
しかし、電話さえ掛ければ、耕一が来てくれるだろう。
そうすれば、こんな恐怖は……。
だが、初音の足が止まった。
電話ボックスの陰から、男が現れたのだ。
ぞくり!
今まで以上の悪寒が、初音を襲った。
カチカチと歯が鳴り、膝がガクガクと震える。
「ようやく、会えたな……」
口の端を歪め、男はその青く光る瞳を初音に向けた。
背格好は、柳川と似ている。
だが、眼鏡を掛けておらず、身体は柳川よりも一回り太い感じだ。
そして、見る者を凍てつかせるようなその視線……。
初音は震えながらも、男に問い掛けた。
「あ、あなたは……誰なんですか?」
男はそれには答えず……。
「俺自身のことよりも、まず妖怪の話をしてやろう」
「よう……かい?」
男が話を始めたのを、初音は恐怖と闘いながら聞いていた。
「そうだ。俺の田舎に伝わる、妖怪さ。
お前は『あるくゎ』というのを聞いたことがあるか?
それが、その妖怪の名なんだがな。
普段は人間とほとんど同じなんだそうだが……。
ある夜突然、身の丈10尺の獣のような姿になり、家畜や人を襲うらしい。
で、今の時代になってもその『あるくゎ』が時折現れるって話さ」
「……な、なんの話をしてるんですか?」
男の話を聞き終わっても、彼が何を言いたいのか初音は理解できなかった。
いや、理解したくなかっただけかもしれない。
「わからないか? 同族の女よ」
「同……族?」
男は、懐からタバコを取り出し、口にくわえた。
「『あるくゎ』も『雨月山の鬼』も元々は同じ種族。
ただ『あるくゎ』は、『雨月山の鬼』の時代よりも後の話。
ここから、俺の田舎に移り住んだ……というのが俺の見立てだが」
ライターを取り出し、カチカチ……とタバコに火をつける。
「そしてその血は、お前に、そして」
火のついたタバコを吸い、ふう……と一息吐いた。
白い煙が、凍りつくような大気に消えていく。
「……そしてその血は、この俺にも、流れている」
ようやく、初音は、わかった。理解させられた。
この男が、全ての元凶なのだと。
「フフフ……先日は、久しぶりに同族の匂いをかいだよ。
俺は、ぜひとも会ってみたくなった」
「匂い……?」
「そうだ。匂いを辿ってある男に会ったが……。
そいつはハズレだった。お前の残り香を持っていたに過ぎなかった。
しかしそのまま放っておくのは紛らわしいんで、殺しておいたがな」
初音の頭を撫でたヤクザの男……。彼の腕に、初音の残り香があったというのか。
「そんな……それが、昨日の事件……?
あ、あなたは人の命をなんだと思ってるんですか!」
初音のその怒りの言葉も、男には大して意味をなしてはいなかった。
「人の命か。そうだなあ。
出来るものなら俺が全て狩り取ってしまいたいものだ」
「なっ……」
男の返答に、絶句する初音。
男はそれに構わず、話を続けた。
「先日のヤクザどもの事務所を襲った時は、実に楽しかった。
次々に消えていく命の炎……最後に輝き弾ける魂……。
フフフ、最高のパーティだったよ」
男がそこまで言ったところで、闇の中から別な男の声が聞こえた。
「その上、ライバル組織を壊滅させたことで、多大な報酬を
麻薬取引業者から貰うことも出来た、と」
街灯の光が、現れた人影の姿を照らし出す。
「柳川さん!」
その姿を見つけて、初音は驚きと安堵の入り混じった声を上げた。
男は、目を細め柳川をじいっと眺めた。
「……お前も同族だな。なぜ、そのことを知っている?」
自分の背後関係を知る目の前の男を、少し警戒しているのか。
男は柳川にそう訊ねた。
「これでも刑事なんて仕事をしていてね。
捜査情報と自分の足で見つけた証拠から、そう導き出した」
「ほう、こちらの鬼は人間社会に貢献するのか……。
涙が出るほどいい話だな、ええおい?」
柳川の答えを聞いて、男は皮肉交じりに言った。
しかし、それに対して柳川は動じない。
「別に、職業としてやっているだけさ」
「で、そのご立派な刑事さんは、俺を逮捕しにきたのか?」
男は、ゆっくりと横に歩き、公園の広いところへと移動していく。
「いや、俺がお前を追っていたのはそんなことをしたいがためじゃない」
「ほほう、それじゃ何がしたい」
男に再度問われて、柳川は、ニヤリと口の端を歪めた。
「……お前と、殺し合いをしたいだけさ」
柳川は眼鏡を外し胸ポケットに入れると、上着を脱いで初音に渡した。
そして、初音にだけ聞こえる声で呟いた。
「……ポケットに携帯が入っている。
俺たちから少し離れて、そいつで柏木耕一を呼び出せ。
おそらくは、家に戻ってるだろう」
「え? は、はい」
「一応、保険は必要だからな……」
初音が頷いたのを見て、男の方に向き直った。
「さて、始めようか?」
スッと左手を左足を前に出し、構えを取る柳川。
それを見て、男の方も上着を脱ぎ捨て、拳を構えた。
「フフフ、お前も結局、俺と同じだな。
殺戮をしたい、そして命が弾ける様を見たいのだな」
「そうだな……特に、同族の命を散らし、その輝きを見たい……」
「全くだ。では、Ready……」
「いくぞ!」
人の形態のまま、ぶつかり合う2人。
何も了解などは取っていないが、まずは技を競うように、闘い続ける。
「ハァッ!」
空手の型から、突き、蹴りを繰り出す柳川。
だが、それは男に軽くかわされる。
「なめるなよ、これでも人を殺して飯を食ってる身だ!」
身を捻りながら、肘打ち、そして裏拳を放つ男。
しかし柳川が腕でガードして、ダメージにはならない。
2人は、まるでスポーツをしているかのように、闘い続けた。
初音は、そんな2人から少し離れたところで、柳川の携帯で家に電話を掛けていた。
「早く出て、早く……」
そんな初音の焦る気持ちをあざ笑うかのように、コール音は鳴り続ける。
「イヤァアア!」
「ヌゥァ!」
柳川の拳と、男の掌底とがぶつかった。
柳川の拳を男が掴む。
そして、もう片方の腕で掴みかかるが、柳川にその腕を掴まれてしまう。
両腕を掴み合ったことで、闘いは膠着状態となった。
「ハハハ、さすがは同族、俺と対等に闘えるとはな。
嬉しいぞ、全くもって嬉しい!」
男は実に嬉しそうだった。
対する柳川も、心躍る喜びを感じていた。
「さすが、お前も修羅場を経験しているだけのことはある。
動きにムダがない」
「お褒めに預かり恐悦至極……と言いたいところだが。
そろそろ遊びはお終いにしようか」
「なに?」
「そろそろ殺してやる、ということだ!」
男は掴んでいる柳川の拳を、力の向きを変えて横に流し、
その隙をついて柳川の身体を伸びた爪で横に凪いだ。
「ぐっ!」
ワイシャツとネクタイの一部が破け、赤い鮮血が飛び散る。
柳川は後ろに吹っ飛び、地面を転がった。
男は、血の付いた爪を舌で舐め、柳川を嘲笑する。
「フフフ、所詮、お前は親父と同じ半端者だな。
自分の力を使いこなせていない」
「な、んだと? お前の父親がどうした……?」
痛みを堪えながら、立ち上がる柳川。
「俺の親父も半端者でな……。
『あるくゎ』の力を使いこなすことができなかったのさ」
男は、父親のことを語り出した。
柳川をいつでも倒せる余裕か、彼が体勢を整えるのを待っているかのようだった。
「何年前のことか……。
力を制御できない親父が『殺してくれ』って泣いて頼むものだからな。
バッサリとやってやったよ。まあ、その時に人を殺す快感を覚えてな」
男の話を聞き続ける柳川。
そして、ようやく連絡を終えたのか、姿を見せた初音。
「だが今の時代、人が死ぬと色々厄介だ。だから最初は、家族を殺した」
「家族を……」
息を呑む初音。
彼女にしてみれば、全く信じられない話だ。
「最初に母親を、次に弟を。
最後に残った妹は生かしておこうと思ったんだが……。
あいつは俺を殺そうとしてな。だから、散々犯してなぶり殺してやった」
最後の『犯して……』というくだり。
初音の方を見てニヤと笑いながらわざと強調して言った。
初音は、それに堪えられず目を逸らす。
「お前の人の心は、もはや失われているのだな」
「お前も似たようなものだろう? 今更人間ぶるのはよせ」
言われて、柳川は言葉を失う。柳川とて、彼と同じように人を殺した身だ。
「人を殺し、女を犯す。それは我々の本能だ。何が悪い?
何がいけない? 強い者が弱い者を蹂躙するのが世の常だろう?」
(違う! 本能が全てではない……)
柳川は、自分の心の奥底で叫ぶ声を聞いた。
「まあ、どちらにしろ今のお前では俺に勝てん。
ではその命……俺に捧げてもらおう。……ハァァァァ!」
男が一瞬気合を発すると、ビリビリと服が破れて、身体が巨大化していく。
鬼の姿だ。
いや、男が言ったように『あるくゎ』と呼ぶべきか。
体積は3倍くらいに膨れ上がり、盛り上がった筋肉は、
脈打つようにピクピクと動いていた。
「……ぐるるるる……ぐおぅうううぅぅ……」
唸り声をあげた『あるくゎ』は、ジロリと青い目を柳川に向けた。
柳川は足が竦み、動けない。
彼を萎縮させるほど、『あるくゎ』は凍てつくようなプレッシャーを与えていた。
一歩、『あるくゎ』が踏み出す。
二歩、三歩……序々にスピードを上げて、柳川に迫る。
「グフフフファァァアァアアア!」
ただの息遣いか、笑っているのか判らない声を出しながら、
『あるくゎ』は柳川に向けて爪を突き出した。
「柳川さん、逃げてぇぇぇ!」
初音の叫びが届いた時には、既に柳川は地に這っていた。
視界が濁り、柳川の意識は、闇の中へと消えていく……。
☆☆☆
「……グリエリ」
声が聞こえる。
「……グリエリ」
この声は、そう……彼女の声だ。
「……グリエリ。どうかしたんですか?」
「いや、リネット。何でもない」
俺は、心配そうな顔をしているリネットに、手で制した。
「……私のせいで皆に心配をかけて……ごめんなさい」
「そんなことはない。リネットは精一杯やっている……。
誰もリネットを責めてなどいない」
我らは、狩猟者だ。
星から星を渡り、獲物を求め、狩りを行う。
我らはその狩りの旅を終え、母星に帰る途中であった。
だが、ヨークを操る巫女であるリネットが操作ミスを起こし、
我々の箱船であるヨークはこの星に不時着してしまったのだ。
しかし、リネット一人に責任は押し付けられない。
それは、長であるダリエリの無茶な航海方針があったからだ。
まだ若いリネットに負担を掛け過ぎてしまった。
そのために、集中力の低下を招きミスが生まれたのだ。
だが今は、責任の所在をどうこう言っている時ではない。
エルクゥたる我らが、母星からの助けが来るまで生き延びるには……
もしくは、母星の助けがない状態で生き延びるには、どうすればいいのか。
「グリエリ……」
リネットが浮かぬ顔で俺を見つめる。
「どうした、リネット」
「リズエル姉様やアズエル姉様はどうなるのですか?」
リネットにそう聞かれた俺は返答に困った。
リネットの姉であるエディフェルは、先の狩りの途中、この星の人間の男を助けた。
そのことは全く問題ではない。男も女も、慰み物として生かしておくことはよくあることだ。
だが、エディフェルはあろうことかその男と共に暮らそうと、我々の目を盗み逃げようとした。
それは誇り高きエルクゥの掟に反する、重大な裏切り行為だ。
そのため、彼女の姉であるリズエル・アズエルの2人が、エディフェルを殺したのだ。
……だが、問題はそこで終わりはしなかった。
リズエルとアズエルが、『人間との共存』を説き始めたのだ。
人間ごときは、家畜と同じようなものだ。
そのような奴らと手を携え共存せよなどとは、我々エルクゥの自尊心が許さない。
しかし、彼女たちは言ったのだ。
母星からの助けがあてにならない以上、この星の者を敵に回す真似はせず、
友好を保ち共存していこう、と。
……2人はダリエリの指示により監禁された。
奴も不平不満を抑えるのに必死なのだろう。
リネットは、俺が返答しないのを見て言葉を続けた。
「姉様たちは考えなしに共存をうたっているのではありません。
これから私たちが生きていくにはどうすればいいかと考えた末のことです。
エディフェル姉様が人間と暮らそうとしたことも、新しい可能性を示すものだ。
そう言っていました。それなのに……」
そこまで言ったところで、俺はようやく口を開いた。
「だが、それは我々エルクゥにとって屈辱の選択でしかない。
エディフェルは男の甘言に惑わされ、エルクゥの誇りを失ったのだと皆言っている」
俺の言葉に、リネットは眉をひそめた。滅多に見ない、彼女の怒りの表情だ。
「ジローエモンはそのような男ではありませんっ」
リネットのその言葉で、俺はエディフェルの捕まえていた男が
そんな名であることを思い出した。
しかし、このリネットの怒りようは……。
「リネット。もしや、お前もジローエモンを愛して……」
最後まで言わないうちに、リネットはブンブンと首を振った。
「な、ななな何を……わ、私は、エディフェル姉様が愛した人が、
そのような酷い人ではないと言いたいだけですっ!」
「……相変わらず、嘘が下手だな」
思わず笑みを洩らしてしまう。
「ジローエモンも罪な男だな。エディフェルだけではなく、リネットも虜にさせるとは」
「だ、だから……」
リネットは顔を真っ赤にして否定している。しかし、どう見ても嘘は明白だ。
「……人間との共存など、俺のプライドが許さない。だが……」
「……グリエリ?」
俺の言葉を聞いて、リネットは俺の顔を見つめ返す。
「だが、リネットの言葉も判らんでもない。
だから、リネットはリネットの思うようにやってみるがいい」
「グリエリ……ありがとう」
……この小さな巫女のために、俺はやれることをする。
彼女と出会ってから、俺はそう誓ったのだから。
そしてそれが、巫女付きの戦士としての務めでもある。
だから、彼女が人間との共存を望むなら、その道を作ってやらねばならないのだ。
「リネット……お前は俺が守る。この命が尽きるまでな」
☆☆☆
……炎が、天を焦がさんばかりの勢いで燃え上がる。
炎と満月の光に照らされ、そこら中に横たわっている仲間たちの
骸(むくろ)が無数に映し出される。
「これが……これがお前の答えか、ジローエモン!」
俺は目の前にいる敵……ジローエモンに向かって吼えた。
リズエル・アズエルは、裏切り者として処刑された。
リズエル・アズエル・エディフェルと、3人の姉を失ったリネット。
悲しみに暮れる彼女が、俺にあることを口にした時は、俺は驚くほかなかった。
『人間に武器を与え対等の立場にさせたい。そして話し合いの場を持たせたい』と。
リネットは、姉たちが唱えた人間との共存を、何とかして叶えようとしていたのだ。
俺はリネットに武器を持たせ、ジローエモンのところへと送った。
ジローエモンはエディフェルの血から鬼の力を得ており、今のところ我々に対抗できる唯一の存在だ。
奴がリネットの持っていった武器を使えば、我々の屈強な戦士たちにも油断ならない存在となる。
そうなれば、リネットのいう話し合いも可能になるというものだ。
「こんなことをして、あなたの立場が危うくなりませんか……?」
行く前に、いつもの泣き出しそうな顔で俺を心配していた。
「大丈夫だ。……だから、早く行くんだ」
俺は少しだけ笑い、リネットを送り出した。
しばらくして戻ってきたリネットが、ジローエモンの作戦を伝えた。
次の満月の晩に皆を誘い出し、そこでジローエモンが乱入。
そこで人間の実力を示し直談判に及ぼうということだった。
……かなり無茶な方法だと思ったが、ダリエリら頭の固い連中を説得するには、
それくらいしなければならないと思い直し、その日に酒宴を行うように働きかけた。
そして再度リネットをジローエモンの元にやり、彼の手助けをするようにさせた。
当日。酒宴は行われ、手はず通りにジローエモンが現れた。
だが……ジローエモンは話し合いなど望んではいなかった。
奴は、俺たちを皆殺しにすべく、用意周到に罠を張っていたのだ……。
奴と人間たちにより、我らの仲間は倒れていった。
油断していた上、罠を張られ、地の利を占められて、反抗する間もなくやられていく。
彼は……奴は、リネットが望んだ共存の道を、踏みにじったのだ。
「ジローエモン……。貴様だけは許さん……」
胸の傷を押さえ、俺はうめくように声を絞り出した。
その傷は、エルクゥの再生力でも追いつかない致命傷だった。
すでに大量の血が、目の前の大地に流れ出している。
目が霞み、周りがよく見えなくなる。
だがジローエモンがそこに立っている……そのことはわかった。
「リネットは、貴様を信じ、武器を渡したのだ。
エディフェルを愛し、エディフェルや自分が愛したお前ならば、
必ずや共存の道を作ってくれるだろう、とな……。
だが、その真摯な気持ちを、貴様は踏みにじったのだ!」
ジローエモンは微動だにしない。……もう、全てが終わったからだろう。
もはや、奴に立ち向かえる者はいない。
ダリエリでさえ、奴の操る武器により命を落とした。
奴はただ、黙って俺の目の前に立っていた。
「俺は貴様を許さん……。リネットを裏切った罪、断じて許さん……!
この命尽きても、お前だけは!」
最後の力を振り絞り、俺は爪を振り上げ、ジローエモンに飛びかかった。
……奴の刀が俺の胸に突き刺さる。
リネット。
俺の巫女よ。
願わくば、お前だけは、幸せになってくれ……。
目の前が真っ白になる。そして俺の意識は……そこで途切れた。
☆☆☆
戦士。
狩猟者の戦士。
巫女を守りし、狩猟者の戦士。
その者は栄誉ある戦士。
絶大な力を持ち、強靭な肉体を持ち、強靭な精神を持つ戦士。
かの者は闘う。
かの者は闘い続ける。
誇りのために。
名誉のために。
巫女を、守るために。
「……グオゥゥオオオゥゥオオオオオオオオオオ!」
倒れ込んだ柳川が、カッと目を見開いたかと思うと、地の底から響くような咆哮を上げた。
「グ……オオ?」
柳川を殺したと思っていた『あるくゎ』は、突然のその叫びに驚いた様子だった。
ゆっくりと立ち上がる柳川。
そして、筋肉が盛り上がり、背びれのような物が生え、身体が巨大化する。
致命傷かと思えた胸に受けた傷も、みるみるうちに塞がっていった。
「柳川……さん」
初音は彼が生きていたことの喜びよりも、その異様な姿に変わってしまった
その驚きの方が大きい様子だった。
柳川の変化が終わり、彼はその赤く光る瞳を、『あるくゎ』に向けた。
「戦士……我ハ戦士ダ。誇リヲ失イ、欲望ノミニ生キル者ニハ負ケヌ」
ダン、と一歩、『あるくゎ』に向けて踏み出す。
それに『あるくゎ』は一瞬怯んだが、すぐに睨み返し攻撃態勢を整える。
身体の大きさは『あるくゎ』の方が大きかった。
見た目から言えば、『あるくゎ』の方に分があるように思える。
だが柳川は臆することなく、一歩一歩、前に踏み出していく。
『あるくゎ』はニィ、と目で笑い、突っ込んでくる柳川めがけ、爪を突きたてた。
その瞬間……柳川は風になった。
「ぐ……グワヲヲヲヲオオオ!」
ボトリ、と『あるくゎ』の腕が地に落ちた。
自分の腕のあった場所と落ちた腕の間を、何度も視線をさまよわせる。
何が起きたのか判らず、ただ腕の痛みだけが『あるくゎ』を襲った。
「ナ……何ナンダ! 俺ガ、俺コソガ真ナルあるくゎナノニ!」
一瞬で『あるくゎ』の脇を走り抜けた柳川は、ゆっくりと振り返り呟いた。
「哀レナ。自ラノ欲望ヲ抑エラレヌ者ガ、戦士タル者ニ勝テヨウカ……」
右腕の爪に付いた血を、振り払って拭う。
一方『あるくゎ』は逆上し、唸り声を上げた。
「グゥオオヲヲヲオオオ! 認メン! 欲望コソガ我々ノチカラノ源!
欲望コソガ完全ナル者ノ証明ナノダ!」
残った片腕を振り上げ、柳川に襲い掛かる。
だが、また風が舞うように、柳川はそれをかわし……。
「完全ナル者トハ……完全ナル戦士ノコト! オ前ノヨウナ者デハナイ!」
柳川の爪が深々と胸に突き刺さっていた。
背中から、貫通した爪の先が見えている。
「ガハッ……」
大量に吐血し、『あるくゎ』はビクビクと痙攣したかと思うと、ゆっくりと倒れ込む。
柳川は爪を引き抜き、『あるくゎ』を地面に倒した。
ドスンと音が響き、それきり『あるくゎ』が動くことはなかった。
青い瞳も……今は濁り輝きを失った。
「……ふぅ」
鬼の姿から人間に戻った柳川は、ヨタヨタと後ずさると、木に寄りかかり座り込んだ。
「巫女を守りし戦士の力、か」
ボソッと、独り言を呟いた。
エルクゥも、ただ本能のまま生きていたわけではない。
自らを律することが出来る者が、強い者なのだ。
そして、守る者がある者こそが、最強の戦士となれる……。
「柳川さん!」
走り寄る初音に、少しだけ視線をやる。
……完全に疲れきっていて、首を動かすことさえおっくうだった。
初音は柳川の横に座り、裸の彼に預かっていた上着を掛けてやる。
「すまんな」
柳川のそのかすれた声を聞いて、初音は無言で首を振った。
柳川はそのまま、少し休みたかったが、そうもいかなかった。
「な、なんだこりゃ!」
誰かの声が聞こえた。
どうやら、『あるくぁ』の死体を見つけて思わず言ってしまったようだ。
その声には、聞き覚えがある。
「……全く、遅いじゃないか」
少しだけ顔を歪め、含み笑う柳川。
そこに走ってやってきたのは、耕一だった。
「初音ちゃん……と柳川?」
「もう、終わったぞ」
耕一は、柳川とさきほどの『あるくゎ』の死体を振り返り、交互に見比べる。
「え? 何で柳川がここにいて、鬼の死体があるんだ?」
耕一はまだ、柳川以外の鬼がいたことを判っていない。
まあ、無理もないことではあったが。
「別な鬼が、いたんだよ。それを、柳川さんが……」
初音の説明を聞いて、耕一は驚いた。
「え? じゃ、一連の事件もアイツか?」
耕一の慌てる様子に薄笑いを浮かべ、柳川は嘲笑うように告げた。
「そう、そしてお前たちの推理は大外れということだ」
「ぐ……」
言葉を失う耕一に、柳川はなおも続ける。
「全く、推理は外れ、大事な時には間に合わず……。
俺がいなかったらどうなっていたことか」
そこまで言われて、耕一も黙っていられなかった。
「あのな、お前がいたからいろいろ話がコンガラがったんだろうが!
それに何で最初に『他に犯人がいる』って言わなかった?」
耕一の問いに柳川は冷ややかな目を向けた。
「……なんで、貴様ごときに教えてやらねばならん?」
「なんだとぉ〜? てめえなぁ!
大体、昼間はお前のせいで、パフェを吐きそうなくらい堪能したぞ!」
「完食したのか」
「当たり前だ、癪だからタダにしてやったぞコンチクショウ。
しばらくパフェは見たくないがな、ってそんな話はどうでもいい!」
「ギャアギャア喚くな。少し休ませろ」
「はあ〜?」
もはや、耕一も頭に血が上ってきていたが……。
「お兄ちゃん!」
「初音ちゃん……? ちぇっ、わかったよ」
初音にたしなめられて、不機嫌ながらも耕一は押し黙った。
「まあ……俺も、奴の意識を夢で見ていなければ、まさか他に
似たような者がいようとは思わなかっただろう」
「あ、だから俺に『よく眠れるか』って聞いたのか?」
その耕一の言葉に、柳川は返事はしなかった。
ただ、だるそうに、上を見上げる。
「しかし……流石に疲れた」
そう言って、目を閉じる。
少しその様子が気になった初音は、彼の側に顔を近づけた。
柳川は、ポツリポツリと、小さく言葉を吐く。
「リネット……俺は目覚めた。
真のエルクゥがどういうものか、ようやく判った……」
目を瞑り呟く柳川に、初音は問い返した。
「え?……柳川さん、何言ってるの?」
だが、聞こえていないのか、柳川の身体から次第に力が抜けていくようだった。
「これからは、また……約束を果たすことが……でき……る……」
そこまで言って……。
ガクリ……と、柳川の首が、横に倒れた。
「や、柳川さん!」
「柳川っ!」
叫ぶ初音と耕一。
「嘘でしょ……目を開けてよ、柳川さんっ!」
涙をこぼし、叫ぶ初音。しかし、柳川の目は開かない。
「やだ……そんなの、やだよ! もう、悲しい思いするのは……やだ……」
「柳川……」
誇り高き戦士、ここに眠る……。
「すぅ……」
「え?」
涙を流していた初音は、柳川の口から漏れた音を聞いて動きを止めた。
「ぐぅ……」
耳を澄ませてみると、確かに聞こえる。
「こ、これって、もしかして……」
「あれだよなぁ……もしかしなくても」
初音と耕一は顔を見合わせた。
そう。
彼は、眠っている。
「すぴぃ……」
訂正せねばなるまい。
誇り高き戦士、ここで(ちょっとだけ)眠る……。
「こ、この野郎、驚かせやがって。叩き起こして……」
いきり立つ耕一に、初音は笑顔でたしなめた。
「しーっ。頑張ってくれたんだし、少し寝かせてあげようよ。ね、お兄ちゃん。」
そんな初音を見て、何やら嫉妬を覚える耕一であった。
だが、初音の頼みとあっては頷くほかはない。
「しっかし……」
木に寄りかかったまま眠りこける柳川を見て、呆れたように耕一は言った。
「なんて安らいだ顔して寝てるんだろーね、こいつは……」
☆☆☆
……まぶたを閉じていても、眩しい光が照らしているのが判る。
ゆっくりと、目を開いてみた。
窓から太陽の光が入り込み、顔を照らしている。
焼きつくようなその白い光が、朝がやってきたのを教えていた。
すがすがしい朝。いつ以来だろうか。
柳川はゆっくり身体を起こし、周りを見回す。
畳敷きの和室。大きさは8畳。
中央に敷かれた布団の他は、脇に置いてある姿見の鏡。
鴨居にハンガーで吊るしてある柳川の背広の上着。
その他に目立つ物はない。
窓は障子戸で、少し開いた隙間から、光の筋が部屋の中へ入っている。
先ほど顔を照らしていたのは、これだ。
柏木の家。
佇まいと、昨日の状況から、この場所をそう判断した。
だとすれば、あまり長居する気はない。
枕元を見ると、Yシャツとスラックス、靴下……
用意してくれた物だろうか。それが置いてあった。
その脇に置いてあった眼鏡を掛け、立ち上がる。
自分の姿が姿見に映ったのを何気なく見て、柳川は一瞬言葉を失った。
「なんと趣味の悪い……」
カエルの柄のパジャマ。
しかも可愛い系のカエルではなく、超リアルなガマガエルの絵柄だ。
「よう、起きたか」
タイミング良く……いや悪くだろうか、ちょうど耕一が部屋に入ってきた。
「おー、やっぱりよく似合うな」
「貴様の趣味か、これは」
「いんや、俺の親父のだ」
それを聞いて、柳川は深い溜息をつく。
これだから、柏木家の人間は……とでも言いたげに。
「もう出るのか?」
着替え始めた柳川を見て、耕一は訊ねた。
「ああ、そう長居もしたくないのでな」
「そうか? まあ、こちらとしても早く出て行ってほしいんだが」
「……ふん」
着替えを終え、ハンガーの上着を背中に引っ掛けると、スタスタと部屋を出る。
耕一が先導し、玄関まで連れていった。
靴も用意してある。……一応まともだ。
「……柳川」
靴を履き終え、外に出ようとする柳川を、耕一は呼び止めた。
「とりあえず、信用していいんだな?」
それを聞いて、柳川は冷ややかに言った。
「それが、人を殺すなという意味なら、そうだな。だが……」
「だが?」
「お前たちに害を与えんという保証は、どこにもない」
ニヤリと笑い、玄関を出て行った。
「て、てめえ……」
「安心しろ、しばらくは大人しくしておくさ」
そう言い残し、柳川は去っていった。
☆☆☆
後日。
朝、柳川の姿を見つけた長瀬は、手を挙げて挨拶をする。
「やあ、柳川君、おはよう」
それを見て、柳川も立ち上がり、お辞儀をして返した。
「おはようございます。今日からまた、よろしくお願いします」
「うん、こちらこそ。しかし、こうも早く復帰を願い出てくるなんてね」
「遊ぶ気にもなれませんでしたので」
実は、柳川から復帰願いの連絡があったのは、休みになってからほんの数日後。
元々1ヶ月の予定であった休みをキャンセルし、すぐに復帰してきたのである。
「それにしても……君にも見せたかったよ、あの時の上の連中の顔をね」
先日、復帰願いと共に柳川がもたらした情報。
それによって、暴力団事務所での殺人犯に金を払った男を逮捕できた。
そのことを、柳川の復帰願いと共に提示したところ、すんなりと許可が下りたのだった。
柳川を快く思わない上の者たちも、そのような実績があれば何も言えない。
「例の犯人はまだ逃走中のようだが、まあ素性も割れているし、逮捕も時間の問題だ」
長瀬のその言葉には、柳川は頷かなかった。
……奴はもうこの世にはいないのだから。
「初音〜」
商店街の入り口に立っていた初音のところに、梓が走り寄る。
「あ、お姉ちゃん、早いね」
「まあね、一年に一度のクリスマスイブだ、はりきりもするよ」
12月24日。世間はクリスマス一色である。
もちろん、柏木家でも今夜はパーティだ。
「ふふ、今年は耕一お兄ちゃんもいるしね」
「おうっ、今年はあの大食漢にも食わせないといけないからな。
いつもより多めに買うぞー」
そんなやり取りをして、商店街に入っていく2人。
「ところで、朝早くに出てって何やってたんだ?」
梓は、初音が朝早くに一人出て行ったことを思い出し、問い掛けた。
「べ、別に……ちょっとね」
梓に問われた初音は、少しドキリとして、適当に返事をする。
その様子を見て、梓はからかうような口調で言った。
「ふううん?
もしかして、大好きな彼氏にプレゼントでも渡してきましたか?」
梓としてみれば、適当に言ってみただけだったのだが。
初音は急にわたわたと落ち着きをなくし、首を振った。
「ち、違うよっ! そういうんじゃなくて、私のお礼の気持ちなんだから!」
……口が滑ったらしい。
実に正直だ。正直すぎる。
梓は、驚いた顔で、もう一度確認する。
「嘘? ホントに彼氏?」
「あ、違う違う! そんなんじゃないのっ!」
そんなんじゃないと言われても、初音の態度からそうとは受け取れなかった。
梓は興味深々で、何とか聞き出そうとする……。
「だ、誰? やっぱり学校の先輩とか? それとも同級生?
いや、先生っていう線もアリか……?」
「だから、違うんだってばぁぁぁ〜!」
柳川と長瀬は、隣り町へと車を走らせていた。
例の事件の捜査協力のための、応援である。
……もう、あまり2人の力が要求されているわけではないが。
「そういえば、今日はクリスマスだねぇ……。
いや、早いもんだなあ。娘に何か買っていってやらんとな」
車を運転している長瀬は、半分独り言のようにボソっと呟いた。
クリスマス用に飾り付けられた街並みが目に入ったからだろうか。
柳川は一瞬長瀬に目をやったが、無言のまま、また前を向いた。
「……ああ、すまん。不謹慎だったかな」
柳川が気分を害してしまったのかと思い、謝る長瀬。
……一応運転中のため、前を向いたまま謝った。
「いえ……娘さん、喜ぶでしょうね」
柳川は、かすかに微笑んだ。
それを横目にみて、長瀬は安心した。
「そうか。じゃ、今日は適当にやって帰るということで……」
「仕事は仕事ですから、きっちりやりましょう」
「う」
前方の信号が赤に変わり、車はゆっくりと減速し、止まった。
その時、チャラ……と柳川の方で音が鳴り、長瀬はその音に興味を持った。
柳川の方を見ると、その手に、光る小さい金色の物がある。
「……懐中時計? 前はそんなの持ってなかったよね」
そう長瀬が問い掛けた。
「ええ、今日……妹から貰いました」
少し苦笑して……もしかすると、彼は照れているのかもしれないが……
柳川は、その時計を長瀬の方に向ける。
彼の言葉に、長瀬は首を傾げた。
「妹? 君は兄弟はいないはずじゃ……」
「まあ、正確には『妹みたいなもの』なんですが」
柳川のその返答に納得したのか、頷く長瀬。
「そうかい。しかし、いい物を貰ったね」
「ええ……」
チャリ、と鎖が鳴る。
信号は青になり、車は発進する。
「柳川君」
「はい」
柳川は、前を向いたまま返事をした。
「いい顔つきになったじゃないか」
言われて思わず長瀬の方を向くと、そこには長瀬が満面の笑みで笑いかけていた。
「はい」
それに、柳川も笑顔で返した。
戦士。
狩猟者の戦士。
巫女を守りし、狩猟者の戦士。
それは栄誉ある戦士。
絶大な力を持ち、強靭な肉体を持ち、強靭な精神を持つ戦士。
俺は闘う。
俺は闘い続ける。
誇りのために。
名誉のために。
巫女を、守るために。
巫女の笑顔を、守るために。
無限の時が流れても、この身が朽ちようとも。
命の炎が燃え、魂が輝き続ける限り……。
柏木家、その後
柏木家の蔵の中。
「ありました。妖怪『あるくゎ』とその伝承が書いてある書物です」
「はあ、ここには何でもあるんだなあ」
楓から書物を受け取り、耕一はその栞を挟んだところを見た。
「これが、奴か……。東北地方、某県に伝わる妖怪。人をさらったり、殺したりする、か」
数ページにわたって、『あるくゎ』についての口伝や特徴などが書いてあった。
「伝承ですから、事実とは違って伝えられてたりはしますけど」
楓の言う通り、牛を丸呑みしただとか、火を吹いたなどというのも書いてある。
それを見て苦笑したが、耕一はふとあることを思いつき、楓に聞いてみることにした。
「奴の他に、一族がいたりするのかな」
奴の家族は皆死んだらしいが、その他にもいるかもしれない。
もしかすると、他にも人を襲ったりしている者がいるのかも……。
楓は首を振った。
「わかりません。でも、私たちが今出ていって何かをする、とは行かないのは確かです」
「あちらの立場で考えれば、余所者が何を、ってなるだろうからな」
「はい。でも……」
「判ってるよ。俺は次郎衛門の子孫、そして生まれ変わりなんだ。
……戦うべき時が来たら、戦うさ」
「ええ……それが、戦士なんです。
己の欲望のためではなく、守るもののために戦う……。
それができる者が、エルクゥの真の戦士。
だから耕一さん、私たちを……守ってくださいね」
END