戦士。
狩猟者の戦士。
巫女を守りし、狩猟者の戦士。
その者は栄誉ある戦士。
絶大な力を持ち、強靭な肉体を持ち、
強靭な精神を持つ戦士。
かの者は闘う。
かの者は闘い続ける……。
「まさか、ありえねぇ……。こんなことはありえねぇ……」
男は、パニックに陥っていた。
彼は、今までいくつかの修羅場をくぐり抜けてきた。
しかし、そんな彼でも生まれて初めて経験することに動揺を隠しきれない。
座り込んだまま、そこから立ち上がれなかった。
事務所内には、おびただしい数の死体が転がっている。
元々はこの男の部下だった者たちの骸(むくろ)だった。
開いた扉から吹き込む冬の風が、すでに魂のない彼らを一層冷たくさせていた。
手に銃を構え、物影に身を隠している。
その状態で、男は何とか落ち着こうと大きく息を吸った。
しかし、その手の震えは止まらない。
それは気温の低さからくるものではなく、彼の恐怖心から来るものだった。
人間の理性の奥底に眠っている野生のカケラが、彼に危険だと警告していた。
……『奴』は危険だ、と。
しかし彼は動かなかった。いや、動けなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
出たらやられる、と思ったのか。それとも恐怖に足がすくんでいたのか。
もしかしたら、このままここにいれば『奴』はいなくなるかもしれない……。
そんな淡い期待が彼の頭をかすめた。
しかし、そのような思いなどお構いなしに、声が掛かる。
「いつまでそこにいるつもりだ?」
男は、すぐにそれが自分に向けられたものだとわかった。
しかし、その場をすぐには動けなかった。
コツコツ……と足音が近付いてくる。
男は何とか意を決し、その場に立ち上がった。
「お、お前は、何者だっ!」
『奴』に銃を向け、怒声を張り上げる。
彼は銃の扱いには慣れており、今も確実に命中させる自信があった。
……『奴』が本当に『人間』ならば。
「これはこれは……ボスが最後に残っていたとは」
『奴』は、嘲りの笑みを口に浮かべ、そこに立っていた。
銃を向けられたことにも、全く表情を変えていない。
「質問に答えろ! お前は、誰だっ!」
男は、なおも声を上げる。
しかし、その声の最後は少し裏返り、彼の心の動揺を示していた。
銃を持つ手に、力が入る。
『奴』が変な動きをすれば、即座にその心臓を撃ち抜くつもりだった。
「……これから死ぬ人間に、答える気はないな」
『奴』がそう答え、すっと靴が動いた時。
男は銃の引き金を引いた。
パン、パン、と乾いた銃声が2発、響く。
しかし、放たれた銃弾は『奴』には当たらなかった。
ただ『奴』の背後にあったガラス窓が割れただけだった。
割れた窓の外から、小さな雪が中に入り込んでくる。
「……遅いな」
『奴』はいつのまにか、男の真横に立っている。
その手はすでに、男の手の銃を撃てないように押さえていた。
「な……。こ、こんな……こんなはずはない……」
男は青ざめていた。動けなかった。
常識を超えた出来事に、もはやその精神は限界にきていた。
一瞬、これは夢なのか、と思ってしまう。
「死ね」
『奴』が空いている左腕を上げる。
そして、まるでスローモーションのように、その手が男の顔面に迫っていく。
男が最後に見たのは、『奴』の手の先に光る爪だった。
☆☆☆
『……この暴力団は隆山地方を中心に活動しており、
警察は対立組織による犯行とみて捜査を進めています。
しかし暴力団側は警察の捜査には非協力的であるとのことで、
関係すると見られる勢力に対し報復を行うとの見方もあります。
これに対し警察も慎重に捜査する方針を固めております。
容疑者の特定にはしばらく時間が掛かるとの見通し……』
居間のテレビからは、朝のニュース番組が流れていた。
それを、耕一がぼうっとした顔で見ている。
テーブルに肘をつき、目はまだ眠そうな顔だ。
季節が冬ということもあり、ドテラを着込んでこたつに入っている。
「お兄ちゃん、ご飯だよ〜」
そこに、初音が笑顔で現れた。耕一の朝食が並べられた盆を持っている。
「おっ、サンキュ」
いつも通りに遅めに起きた耕一のために、わざわざ温めてきたのだ。
目の前に置かれた盆から箸を手に取る耕一。
そして「いただきます」と手を合わせ拝み、茶碗を片手に朝食をかきこみ始めた。
テレビからは、依然、ニュースが流れ続けている。
『なお、警察の調べでは、この遺体の傷は以前の連……』
その時いきなり、テレビからの音が聞こえなくなった。
「おや、急にテレビが……」
耕一と初音がテレビを見ると、映りが悪くなっていて、全く音が出ていない。
チラチラと垣間見える画面からは、さっきと同じニュースを続けているように見えた。
初音がテレビに近づこうと立ち上がろうとした瞬間、映像も音も元に戻る。
『…との関連性についても調べを進めるとのことです。
以上、現場前からお伝えしました』
ちょうど、現場からの中継が終わったところらしい。
「……何見てたの? ニュース?」
初音はそこに座り直し、耕一のためにお茶を入れながら、回復したテレビの方を見ていた。
「むぐ、うん、昨日、ヤクザ事務所が襲撃されたんだとさ」
耕一は口に含んだ物を飲み込み、初音の言葉に答える。
言われて初音は、不安げに少し眉をひそめた。
この半年の間に体験した、叔父の死、身近なところでの連続殺人事件など。
初音は『死』というものに敏感になっているようであった。
「……怖いね」
「大丈夫だよ、俺たちには関係ない話さ」
初音の不安な表情を吹き飛ばすかのように耕一は笑った。
そして、リモコンを手にして、テレビのチャンネルを変える。
それは、番組を変えて初音の表情を明るくするための配慮であった。
朝からやっているワイドショー番組に変え、再び朝食に箸を伸ばす。
しかし、ふとその箸を止め、初音に顔を向ける耕一。
「そういえば、今日学校は?」
初音が私服姿なのを見て、ふと疑問に思ったらしい。
……耕一のその質問に、初音は苦笑した。
「今日は日曜日だよ、お兄ちゃん」
その言葉に、ああ、と頷いて耕一も苦笑した。
「休みに入ってから、曜日の感覚がなくなっちゃって」
耕一は照れ隠しに頭を一掻き。
そして茶碗に残ったご飯をまたかき込み始めるのだった。
世間一般に呼ばれている『隆山連続猟奇殺人事件』より、4ヶ月が過ぎた。
事件の真相を知っている柏木家でも、その話題が口に出ることはなくなっていた。
(もっとも、その中でも千鶴と楓、耕一しか知らなかったが)
警察でも、凶器は特定できなかったが薬漬けの青年の犯行、ということで決着が付いたらしい。
柏木賢治の自殺についての疑惑も、そのうやむやのうちに消えてしまったようである。
やがて柏木家にも、つつましいながらも平穏な日々が訪れていた。
「おう耕一、飯食ったらちょっと手伝ってよ。力仕事あるから」
そこに現れるなり、梓は耕一に向かってそう言っていた。
「なんだ梓、やぶから棒に。俺にも都合ってもんがあるんだぞ」
箸を置いて、耕一は梓の強制労働から逃れようと言い返した。
「ほほう。なら、その都合ってもんを言ってちょうだいよ。
ただし、あたしがちゃんと納得できるようにね」
「う、うむ……それはだな、その……初音ちゃんとだな……」
口ごもりながらも何とか理由を考える耕一に対して、梓はさらにたたみかける。
「ちなみに『初音と遊ぶから』っていうのは通用しないからね。
初音は今日は友達と出掛ける予定なんだから」
「そうなの?」
梓の言葉を初音に確認する耕一。
初音は、それに苦笑しながら頷いた。
「そうか……ならば……」
「ほれほれ、何か言うてみい」
ふふんと勝ち誇る梓に、耕一はサラリと言い放つ。
「それじゃ、楓ちゃんと遊ぶから」
「『それじゃ』って何だっ! 思いっきり今考えてるだろっ!」
思いっきり突っ込まれた耕一だったが、冷静に梓に問い掛けるのだった。
「まぁ、よく考えてもみろ。俺がなぜここにいると思う?」
「ヒマだから」
間髪入れず、梓は真顔で答えた。
あまりの返答の早さに一瞬言葉を失う耕一。
何とか気を取り直して、その口を開いた。
「あ、あのな……キッパリと言ってくれるじゃないか」
「だってそれ以外に何があるってのさ」
にべもない梓の言葉。
後ろにいる初音はというと、その漫才のようなやりとりに、声を殺して笑っていた。
「そうじゃなくてだな。
俺はみんなの寂しさを紛らわすための存在として必要だろうと思って、
冬休みのバイトもキャンセルしてこうやって来てるんだぞ?」
「あたしは別に寂しくないよ」
「そりゃ、お前はそうだろうけどさぁ。
初音ちゃん、楓ちゃんは俺とのふれあいを大事にしてくれているんだ。
その気持ちを酌んでやるのが男ってもんだ、そうは思わないか?」
「あたしの手伝ってほしいって気持ちは酌んでくれないの?」
「それはまた別の話だ」
「口が減らないんだから……。
飯作ってやってるんだから、手伝ってくれてもいいじゃない」
「全く、ああ言えばこう言う」
「それはこっちの台詞だっ!」
2人の漫才が続く中、初音はお腹を押さえて可笑しさを噛み殺していた。
☆☆☆
「よし、これでOK」
外行き用のおめかしを終え、初音は鏡の前で笑顔を作る。
上はタートルネックのセーター、下はキュロットスカート。
寒くないようにその下に黒いストッキングを履いている。
そして、普段と違うのはその髪型。
ポニーテールにしたその髪を揺らしてみてから、コートを羽織る。
そしてマフラーを着けて、これで準備完了。
あらかじめ置いてあったリュックを背負って、玄関へ向かう。
「おっ、今日はポニーテールか」
外に出てきた初音を梓が見かけ、声を掛けた。
梓は、屋根に掛かったはしごを支えているようだった。
「……何やってるの?」
初音が聞くと、梓は笑って答えた。
「見りゃわかるだろ、はしごを支えてるのさ」
「ええっと、それはわかるんだけど……何のために?」
梓は笑顔のまま、黙って上を指差す。
初音は指の先の、屋根の上に目を向けた。
「耕一お兄ちゃん?」
その先には耕一が、梓の支えるはしごを離れ、ゆっくりと、
屋根のてっぺんまで登っていく姿があった。
「ロッククライマーの自主トレ中さ」
梓がそういうと、「へぇ〜」と初音は感心した様子で言った。
その様子に、梓が呆れた顔になる。
「……冗談に決まってるでしょうが。アンテナの修理だよ」
そう言われて、恥ずかしげに苦笑する初音。
「そ、そういえば、最近テレビの映りが悪くなることが多かったね」
つい先ほども、ニュースの途中で映像が悪くなったところだ。
「ああ。それでアンテナがどうかなってるのかな〜と思って見てみたら。
案の定、一部壊れてることがあってね。こうして交換してるわけさ」
梓は足下に置いてある、新品のアンテナを指差した。
「それでさっき、耕一お兄ちゃんに頼んでたんだね」
「そうそう。高いうえに、結構アンテナも重いから。
ここは男の耕一の出番ということで」
そう話していると、上から声が掛かってきた。
「おーい、外したら一旦降りるのか?」
その耕一の声に答える梓。
「さっき言ったろ〜?
外したらそれ降ろして、新しいの付け直すってさ〜」
「わかった〜。ちょっと待ってろ〜」
そう声が返ってきて、耕一はアンテナを取り外しにかかったようだった。
「……それじゃ私、行ってくるからね」
「ああ、いってらっしゃい」
梓に見送られ、初音が門の引き戸を開ける。
「お兄ちゃ〜ん、頑張ってね〜」
そして初音は後ろを振り返ると、屋根の上にいる耕一に向かって手を振った。
その声に、耕一も笑顔で手を振り返す。
……その瞬間。耕一の足が滑った。
「のぅわっ!」
滑り落ちそうになったその瞬間。
耕一は屋根にへばりつき、何とか落ちるのを食い止めた。
「お兄ちゃん、だいじょうぶっ?」
「どうした耕一っ?」
心配そうな声を上げる二人。
屋根にへばりついたそのままの体勢で、耕一が返事する。
「だ、大丈夫だ〜」
その姿はさながら車にひかれたカエル。
あるいは昆虫採集の標本といった様子だった。
梓は耕一が無事なのを確認すると、ほっと一息ついた。
「気を付けろよ〜。ウチの屋根は結構急だし、滑りやすいからな〜」
「そ、そういうことは先に言え〜」
屋根を這い上がり、何とかアンテナのところまでたどり着く耕一。
「ごめんねー。私が余計なことしたから……」
謝る初音であったが、梓がそれに笑いながら答えた。
「初音の声に惑わされた耕一が悪いんだ、気にすんな」
「でも……」
すまなそうな顔の初音に、耕一が声を掛ける。
「俺は大丈夫だから。それより、早く出掛けた方がいいんじゃない?」
「あ、うん。それじゃ、行ってきます」
そう言って初音は手を振ろうとしたが、さっきのこともあるので、その手を引っ込める。
「いってらっしゃーい。ポニーテールも可愛いぞ〜」
耕一にそう声を掛けられて、初音は顔を赤くした。
「い、行って来まーす!」
恥ずかしさからそのまま小走りに、初音は出掛けて行った。
「おっしゃー! 固定終了だ!」
アンテナを付け終わった耕一が、そう声を上げた。
「お疲れ〜。お茶でも入れるから、降りておいでー」
「お前に言われなくても降りるわぁ〜」
梓とそんなやりとりをして、耕一は屋根を降りてはしごに辿り付く。
「いやぁ、しかしさっきは怖かったな」
「さっき?」
はしごを降りながらの耕一の言葉に、梓は何のことかと聞き返した。
「いや、さっき落ちかけただろ。あれは怖かった」
耕一のその言い様に、ケラケラと笑いながら梓は返す。
「何言ってんの〜。耕一なら落ちても大した怪我しないでしょうが」
柏木家の一族は、普通の人を超える力を持つ。
頑丈さも並大抵のレベルではない。
「……それでも怖いものは怖いんだよ」
耕一はそうつぶやいたのに対し、梓は笑って答えた。
「いやいや。そんなのより、千鶴姉の方がよっぽど怖いって」
「千鶴さん?」
耕一の言葉に、梓は大きく頷く。
「そう! 千鶴姉の料理が怖いのはもちろんのことだけどさ。
本人の禁句3ワードをつい言ってしまった時なんてもう般若のようで……」
腕組みして今までの恐怖体験を聞かせる梓。
それに対し、耕一は何故か急に慌て出した。
「……あ、梓、ち、ちち千鶴さんが……」
梓は、その耕一の言葉を笑い飛ばす。
「あぁ、千鶴姉なら『早めに仕事に行かなくちゃいけない』って、
もう出掛けちゃってるから安心だって」
「いや……その……後ろ」
耕一は蒼い顔をして、梓の後ろを指差してみせた。
「後ろ?」
梓が振り向いたそこには、出掛けたはずの千鶴が立っていた。
梓は千鶴の姿を見て、驚きで腰を抜かしそうになった。
「あ〜ず〜さ〜ちゃぁぁぁん♪ だぁ〜れが怖いってぇ〜?」
笑って話し掛ける千鶴。
しかし、笑顔ではあるが目は笑っていない。
頬の肉も心なしかピクピクと痙攣しているようだ。
「なななななっ? なんで千鶴姉がいるのっ?」
怯えた声で、梓は千鶴がここにいる理由を聞く。
朝には会社へ送り出した彼女が、なぜ今ここにいるのか。
「ん〜? ちょっと書類を部屋に忘れたから、取りに来たんだけどね……。
でも、ちょうどいいタイミングだったわねぇぇぇ♪」
笑顔のまま、両手でしっかりと梓を掴まえる千鶴。
「あああああのね別に悪気があったわけではそのあのっ」
恐怖の中で何とか弁明を試みる梓であったが、上手く舌がまわらない。
その怯えた様子は、まるで肉食獣に狙われている小動物のようであった。
「ふぅぅぅぅん? そういうことは私の部屋でじぃぃっくりと聞かせてね♪」
梓は何とか、この危機を脱出するための知恵を思いついた。
「そ、それより、書類持って会社に行かないと、ねっ?」
しかし、千鶴から出た言葉は、梓の希望とはまったく逆であった。
「あぁ、それなら大丈夫よ。
午後イチの会合に間に合えばいいって足立さんに言われてるから」
「そ、そ、そうなの?」
梓の言葉に大きく頷く千鶴。
「そう♪ だから心配なんて、全然、全くしなくていいわよ♪
さ、部屋に行きましょうか♪」
がしっ、と梓の腕に自分の腕を組ませると、千鶴はそのまま玄関から中へ入っていく。
「はわわわわわ…。こ、耕一、助けてぇぇ」
梓はなんとか耕一に助けを求めようとする。
しかし、それに対して耕一は小さく首を振った。
「すまん梓。口を滑らせたお前が悪いんだ……」
千鶴に引きずられていく梓に、小さく合掌する耕一。
そのまま千鶴は、梓を自分の部屋に連れ込んでいった。
そこで何が行われたのかは、当の2人しか知る者はない。
ただ時折洩れる梓の悲鳴だけが、耕一の恐怖心を煽るのであった。
「確かに、高い所より怖いよな……」
一人コタツに入ってみかんの皮をむきながら、そんなことをつぶやく耕一であった。
☆☆☆
「私から提出する書類はこれで全部です」
彼、柳川祐也はファイリングされた大量の書類を、長瀬の目の前に置いた。
長瀬は無言のまま、そのファイルと柳川の顔を見比べる。
そしてファイルを手に取りパラパラとめくった。
柳川も無言のまま、その様子を見守る。
傍目には、長瀬はファイルの内容を確認しているように見える。
しかし、長瀬の目が実際に書類の内容を映していたかは疑わしかった。
どちらかというと、『確認する』というパフォーマンスをしているだけ……
というようにも思えるのだが。
やがて最後までめくると、パタッと閉じてそれを机の上に戻した。
そして、長瀬は今までずっと閉じていた口を開いた。
「……何度も言うようだけどね。
今回、君に休んでもらうのは、心身共にリフレッシュしてもらうためだよ。
それ以外に、特別、理由があるわけではないから」
柳川は少しだけ口を曲げ、笑った。
「わかってます」
それだけ言うと、柳川は自分の席に戻り、帰り支度を始める。
その様子を見ながら、長瀬はふぅ、とため息をついた。
柳川は、夏に起こった連続殺人事件から、ずっと精彩を欠いていた。
逮捕したその容疑者は、彼が住んでいる部屋の隣りに住んでいた青年だったのだ。
この時の捜査本部は、『なぜ隣りに事件の犯人や被害者がいて気付かないのか』
と彼の能力に対して非難を集中させた。
例をみない難事件であったのは確かではあるが、捜査が遅々として進まず
時間がかかったため、被害者が多数出てしまったのは事実である。
その責任を、上は全て柳川に押し付けた。
その時に下されようとしていた懲戒免職の処分は、長瀬の懸命の取りなしにより
何とか軽減され、彼は署に留まることができた。
しかしそれ以来、以前ほどの鬼のような仕事振りではなくなってしまった。
それでも真面目に仕事をこなし、上から文句は言われることはなかったが……。
その抜け殻のような状態も一時的なものだろうと思っていた長瀬だったが。
しかし2ヶ月、3ヶ月と続くその彼の状態を心配するようになっていた。
そして長瀬は見かねて、上司に彼の休暇を申し出たのである。
しかし、タイミングが不味かった。
昨日、県内の暴力団事務所にて、大量虐殺事件が起きたのだ。
刑事課の彼らも捜査のために関わることになることは確実だった。
また、夏の連続殺人と同じような凶器であるとの報告もあったため、
その時の担当でもあった長瀬と柳川へ、声が掛かっているらしかった。
事件の詳細を聞いた柳川も、休暇の返上と捜査への参加を申し出た。
長瀬はその申し出は当然承認されるものだと思っていた……が。
しかし上はその申請を認めず、逆に柳川にそのまま休むように命じたのだ。
言葉を飾ってはいたが、その様子を傍らで見ていた長瀬には、
彼らが柳川を疎んでいるように見えた。
傍から見ていた彼にもわかったのだ。
目の前でその言葉を聞いている柳川にも当然わかっただろう。
結局、長瀬の休暇申請は、柳川を遠ざけたい上の者たちにとって渡りに船だったのだ。
「それじゃ、失礼します」
柳川は支度を終え、長瀬に礼をする。
長瀬はそれが、まるで彼がそのまま辞めてしまうかのように見えて、一瞬言葉を失った。
しかしすぐに気を取り直し、笑顔で頷く。
「ああ、よい休暇を」
長瀬のその言葉に柳川はもう一度礼をして、そこを去っていく。
「何とか、この休暇で元気を取り戻して欲しいもんだが……」
出ていく柳川の背中を見ながら、長瀬はポツリとつぶやいた。
「よい休暇を……か」
無表情のまま柳川は、廊下を歩いていく。
日曜だというのに、署内はいつも以上に騒がしかった。
「例の暴力団に生存者がいるらしいんだが、会わせてもくれないんだと。
どこかにかくまってるらしい」
「犯人の顔を見てるのか?」
「何も知らない人間を隠したりはしないだろ」
そんな会話が、柳川の耳に入ってくる。
だが、柳川はそちらに顔も向けず、出口へ向かって歩いていく。
すっかり寒くなった外へと出た彼は、手に持っていたコートを羽織る。
すでに時間は夕刻を過ぎ、空も暗くなっていた。
しばらく空を見ていた柳川は、ふと何かを思い出したかのような様子で歩き出した。
そのまま、彼は駅へとその足を向ける。
……歩き続けるその彼の目は、先ほどまでの無気力さはなく。
何かを得たような、そんな輝きがあった。
それはまるで、何か別なものが宿ったような……。
そして、何かを求めるような……。
☆☆☆
「はぁ、すっかり遅くなっちゃった」
初音は一人、駅までの道を歩いていた。
彼女は隆山から電車でこの隣り町の伊沢まで来ていた。
この町にいる高校の友人たちと食事やカラオケなどをして遊んだのだ。
今は、その帰り道である。
「でも、今日は人が少ないなぁ……。以前はもっといたと思ったけど」
一人で歩く心細さを打ち消すように、初音は呟く。
街灯は明るく足元を照らしている。駅に近いこともあり、元々は賑わっている場所だ。
時間も日が暮れてからさほど経っているわけではない。
しかし今、人影はまばらだ。
その少ない人影も、早足でそれぞれの目的の場所へ歩き去っていく。
……たまに、怖い顔をした男たちがキョロキョロと周りを見回しながら、
初音の脇を通り過ぎていく。
「……何だか、いつもと違う。早く帰ろう」
初音は不安に駆られながら、足早に駅へと歩みを進めた。
早く、姉たちや耕一の待つ家へ戻ろう。
そう思いながら、けして速いとは言えないが急ぎ足で歩いていく。
その時。
「……?」
ふと、何かに気付いた。
いや、『感じた』と言った方がいいだろう。
何かは判らないが、知っている感覚。
その感覚を追うように、初音が後ろを振り向いた、その瞬間。
パァァァン!
「ひっ」
ロケット花火が弾けたような音が轟き、初音は思わず目を瞑り、身をすくめる。
そしてゆっくり目を開けると、2人組の男が路地裏から走ってきていたところが見えた。
「バカ野郎! こんな街中でぶっ放す奴があるか! 早くしまえ!」
「で、でも奴を逃がしていいんですかい?」
「ハジキ出すのは最後なんだよ! 警察に出張って来られて困るのはこっちなんだ!」
言い合いながら、初音の方に走ってくる2人。
男たちの風体は、スーツを着崩した、いわゆる『ヤクザスタイル』だ。
初音はその2人が近づいてくるのをただ見てるしかなかった。
……恐怖のあまり、足がすくんでいたからだ。
「そこの嬢ちゃん」
さっき怒鳴っていた方の男が、初音に声を掛けてきた。
肩幅が広く、筋肉質な感じで、歳は30代くらいか。
スーツが死ぬほど似合わない風体である。
「ひっ……はいっ」
引きつった声で返事をする初音。
その初音の緊張を見て、男が表情を少し和らげた。
「そんな怖がらんでいい。俺たちはちと人探ししてるだけだ。
……さっき、こっちに人が走って来なかったか?」
「隠すとタメにならねぇぜ?」
横でもう一人の男がそう付け加えた。
少し痩せ気味で、不健康そうな顔つき。
見た目から判断するに、20歳半ばほどだろうか。
『チンピラ』という言葉が実によく似合いそうな男だ。
その男の頭を、兄貴分の男が無言でバシッと叩き、睨みつけた。
『怖がらせるんじゃねえ』とでも言いたげに。
「い、いえ……見てないです」
首を振って答える初音を見て、男はふう、と嘆息した。
「さっきみてえに電話でも鳴ればすぐ判るんだろうが……。
さすがに同じミスするバカはいねぇか」
男のその言葉は別に誰に言うともなく出たようだった。
初音にも、どういう意味かは判らない。
「しょうがねえな、引き上げだ」
「ちょっと兄ィ! 諦めるんですかい?」
男の言葉に、若い方の男が食い下がった。
それを見て、男は呆れた顔で返す。
「誰かさんがハジキぶっ放さなければ、もう少し粘ってるところだがな」
「うっ……で、でも」
「ああ、それとも何か? 警察の皆さんが来るまでウロウロしてて、
『さっきのは私が撃ちました』とか名乗り出たいのか?」
「い、いや、そんな……」
若い男はかぶりを振る。それを男は薄目がちに見て、言葉を加えた。
「……それより、帰ったらお前は説教な」
「そ、そりゃないっすよ、兄ィ」
説教という言葉を聞いて、若い男は情けない声をあげる。
しかし男はそちらには構わず初音に向き直り、ポン、と初音の頭に右手を乗せた。
「おう嬢ちゃん、怖がらせて悪かったな。
ここらは今、物騒だからな、早く家に帰った方がいいぞ」
「は、はい」
初音が頷いたのを見て、男は引きつったような不気味な笑いを見せた。
……多分、男にしてみれば普通に笑顔を見せたつもりなのだろうが。
「よし、引き上げだ」
男はきびすを返し、来た道を引き上げていく。慌ててついていく若い男。
「なんすか、兄ィってロリコンだったんすか。あんな娘っ子の頭撫でたりして」
「……帰ったらお前、説教の特上コースだ」
「ま、待って下さいよぉ〜。俺は率直な感想を……」
そんなやりとりをしながら早足で去っていった。
ふう、と一呼吸して、初音は足を駅に向けようとした。
「……」
だが、また『感じた』。初音の感覚に直接届く、『何か』。
初音は、引き寄せられるように、その感覚の発するところへと歩いていく。
……この路地には、何本かの樹木が植えられている。
その中の1本は、脇のビルにかかるように植えられていた。
丁度、人が一人くらい隠れられるくらいの幅がある。
その、陰に。
いる。
初音はゆっくりと近づき、その陰を覗き込んだ。
そこには、息を殺し、片ヒザをついている男がいた。
頭を低くしているため、顔は見えない。
……男が、覗き込んだ初音に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「……か」
「か?」
「い、いや、何でもない……。それより、あの2人組は?」
「あ……。あっちに向かって歩いて行きましたけど」
少し疑わしそうな目を向けながらも、初音は正直に答えた。
「そうか」
その男……柳川祐也は小さく、ふう、とため息をつく。
そして地に着いてた膝を手で払って立ち上がった。
「あ、あの」
「ん? ああ……私は警察の者だ」
初音の視線と言葉から、自分の正体を知りたがってることを感じ取ったのか。
柳川は先に自分の身分を明かした。
胸のポケットから、警察手帳をスッと取り出し、初音に見せる。
「警察……ですか」
その手帳を見て、初音の持っていた不安は一応取り除かれたようだ。
無論、何故警察官が追われているのか、という疑問は残ったままだったが。
柳川はそれだけ言ったのみで、初音も言葉の続きを失ってしまった。
そのため、しばし沈黙が流れる。
その時、ブブブ……と柳川の胸のあたりが震えた。
柳川は背広の胸に手を入れると、震える携帯電話を取り出す。
「しかし、携帯が鳴るとはな……迂闊だった」
柳川の口から洩れたそのかすかな独り言が、初音の耳に届いた。
初音はすぐ、先ほどの男たちの言っていたことを思い出した。
『さっきみてえに電話でも鳴ればすぐ判るんだろうが』
あれは、柳川の携帯が鳴ったことを意味するのだ。
また柳川の『迂闊だった』という言い方からも……
彼らに追われていたのだろうということの裏付けになる。
……柳川は携帯を耳に当て、電話に出た。
「はい、柳川ですが。ああ、先ほどのも長瀬さんでしたか……
いえ、電車の中でしたので切らせていただきました」
電車の、中?
初音は思わず、駅の方を振り返った。
……男たちが走り出してきたのは、駅とは逆方向の路地だ。
柳川が先ほどまで電車に乗っていたとは考えにくい。
「何もしてませんよ。はい……例の襲われた組の別の事務所で騒ぎが?」
柳川は横を向いて話しており、初音の怪訝そうな顔は視界に入っていない。
「そうですか……そんなことがあったんですか。はい、いえ、何も」
多分、電話の相手は彼の同僚か上司だろう。話している内容からそれとわかる。
初音は、柳川が嘘をついている、と思った。
彼は今ここにいることを隠そうとしている。そう、感じた。
「……はい、失礼します。わざわざありがとうございました」
そう言って、柳川は携帯を切った。
「さて、君の家は?」
「はいっ?」
いきなり問い掛けられ、初音は裏返った声で返事をしてしまった。
柳川の厳しい表情が、一瞬緩む。
「ここは物騒だから、家まで送ろう。
ここにはさっきの発砲で警察が押し寄せてくるしな」
「あ、はい……。家は隆山なんです」
「そうか、ちょうどいい。
私も家は隆山でね……電車になるが、いいね?」
「はい、大丈夫ですけど……」
柳川は初音の背中を押し、駅へ歩き出した。
初音もそれ以上は言わず、柳川の横を歩いていく。
「……さっきの」
「はい」
柳川が言葉を掛け、初音が返事をする。
「さっきの発砲だが、君は何も見ていない」
「え?」
初音は思わず、柳川の顔を見上げた。
それに気付き、柳川も初音に顔を向け、話を続ける。
「面倒になると困るんでね。……そういうことにしておいてほしい」
「は、はい。わかりました」
2人は無言のまま、駅へ入っていく。駅の中にいる人もまばらだった。
そして初音が切符を買っている間、柳川が待つ。
初音は切符、柳川は定期を使い、改札を通り電車に乗り込んだ。
2人が乗った車両には、他に人はいなかった。
柳川が近くの座席に座ったのを見て、初音もその隣りに座る。
……電車が動き出してからも、会話はない。
そのまま、終始無言のまま、電車は隆山方面へと向かっていく。
しかし初音は、無言の時にありがちな居心地の悪さは感じなかった。
他の駅に着いても乗ってくる人はおらず、しばし2人だけの時間が流れる。
そして、初音の降りる駅の名がアナウンスで告げられた。
「降りる駅は次か。……駅からは一人で大丈夫だね?」
アナウンスが終わったところで、柳川がそう聞いた。
立ち上がりながら返事をする初音。
「あ、はい、大丈夫です」
「よし。……それじゃ、私は次の駅で降りるから」
それを聞いて、初音はお辞儀をする。
「はい。ありがとうございました」
その時、ガクン、と電車がブレーキをかけた。
初音はバランスを崩し、横に倒れそうになる。
とっさに柳川が右手を差し伸べた……
が、勢いの方が増しており、柳川も一緒に床に倒れこんだ。
「ぐっ……!」
倒れて少しの間、2人は動かなかった。
その間に、電車は完全に停止する。
そして降り口のドアが開いて、ようやく初音が我に返り、起き上がった。
「す、すいません!」
泣きそうな顔で謝る初音。
初音の方は柳川の腕の上に倒れたお陰で、大した痛みはなかった。
だが、いくら軽いとはいえ、初音の全体重をその片腕のみで
受け止めた柳川は、少し顔を歪めている。
「い、いや、大丈夫。大したことはない。それより、早く降りなさい」
立ち上がりながら、そう初音に告げる柳川。
しかし彼は多少我慢をしている顔をしていた。
「でも」
「大丈夫だ。……だから、早く行くんだ」
初音が謝るのを制し、彼女の背中を押す。
その時、柳川はふと奇妙な感覚に囚われた。
既視感。
以前に、同じようなことを経験したかのような、感覚。
……初音がためらいがちに電車を降りたところで、ドアが閉まる。
初音はドアが閉まってからも、その場で柳川の方を見て立っていた。
少し、泣きそうな表情をして。
柳川はそれに『大丈夫』と軽く手を挙げる。
そして初音に背を向けるように座席に座った。
柳川の後ろ姿が見えなくなり、初音は改札に向かおうとする。
しかしその時、パサッと何かが落ちた音が聞こえ、立ち止まり足元を見た。
名刺サイズの大きさの黒い四角形。
拾い上げて見てみると、どうやら免許証入れのようだ。
中には先ほどまで一緒にいた男……柳川の免許証が入っている。
「さっき倒れた時、私の服に引っかかったのかな……」
そう呟いて、それをどうするか一瞬迷う。
……とりあえず、今日のところは持ち帰ることにした。
「柳川祐也さん……か」
免許証を見て、名前を確認する。
何をしているのか判らない怪しさはあったが、怖い印象は無かった。
全くイメージは異なるのだが、耕一に似ているような感じを覚えていた。
電車では倒れた初音を、咄嗟にとはいえかばって……。
「あれ……?」
思い出してるうちに、初音はあることに気付いた。
「何で、私の降りる駅を知ってたんだろう……?」
☆☆☆
家に帰った初音を待っていたのは、姉たちや耕一の安堵の顔だった。
「よかった〜、心配してたんだぞ〜」
泣きそうな顔をして抱きつく梓に、初音は戸惑いを隠せない。
「な、なに? 心配してたってどういうこと?」
多少混乱気味の初音のその質問に、耕一が答える。
「今日の朝、連続殺人事件の報道してたろ?
それが初音ちゃんが行った先で起きてたって話だからさ」
「伊沢で?」
耕一の言葉を聞いて、初音は驚いた。
まさか、あそこでそんなことがあったとは。
しかし同時に、納得もしていた。
だからこそ人通りも少なく、異様な雰囲気であったのだろう、と。
「そうなのよ〜。犯人も捕まってないらしいし。
ヤクザはウロウロしてるらしいし、ホント心配で心配で〜」
「ごめんね、梓お姉ちゃん。電話しとけばよかったね」
抱きついたまま話す梓の、その頭を撫でる初音。
梓だけではなく、千鶴や楓、もちろん耕一も抱きつきたいほど心配してたようである。
そんな皆に、初音は申し訳ないと思う反面、心配してくれたことがとても嬉しかった。
「帰る途中、何もなかった?」
今まで口をつぐんでいた楓が、初めて声を掛けた。
「ええと、伊沢の駅で……」
言いかけて、初音は柳川から発砲のことを口止めされたことを思い出した。
「駅で? どした?」
「えーとね、駅で警察の人に危ないからって注意されて……。
それで、こっちの駅まで送ってもらったの」
ようやく初音から離れた梓に促され、初音は発砲のことは言わずに誤魔化した。
正直者の初音らしく、嘘は言っていない。
「ふうん、今どきの警察が送ってくれるなんてねぇ〜」
感心する梓に、耕一のツッコミが入る。
「か弱い初音ちゃんだからだろ。梓の場合なら一人で帰すだろうな」
「何だとコラァー! どういう意味だ!」
漫才師のようなそんな2人を放っておいて、千鶴は初音に聞き返す。
「あとでその人にお礼言っておかないとね。その人の名前は?」
「あ、ええと……柳川さんって人。隆山に住んでるって」
「柳……川?」
千鶴と耕一の表情が凍った。
楓も、少し険しい顔つきになっている。
「ん? どしたの?」
梓だけ、怪訝そうに3人を見つめる。
「あ、ううん、何でもないわ」
千鶴が、明るい顔で被りを振った。
……だが、その態度は多少不自然さが見えた。
「柳川さんを知ってるの?」
初音のその質問には、耕一が横から答えた。
「ん、夏に捜査とかでここに来たことがあってね。
……俺もその時に会ったんだ」
「それより、明日は月曜よ。学生さんはお風呂入って寝なさい」
千鶴がそう言ったのを受けて、楓が初音に向かって話す。
「初音、先にお風呂入りなさい。……外寒かったんだし」
「う、うん」
初音は柳川のことをもう少し聞きたかった……
が、それ以上話す雰囲気でなくなってしまい、初音は諦めて自分の部屋へと向かった。
……それを見て、楓の表情が少しだけ、和らいだようだった。
「梓、あなたは初音の次ね」
千鶴は、梓に初音の次に風呂に入るように、半ば強制的に決める。
梓も、別に異論はないようであった。
「あー了解。あたしゃ朝食当番だからねぇ〜、早く寝ないとねぇ〜」
その言葉に、『キラーン』……と音が出たかどうかは判らないが、千鶴が目を輝かせた。
「あ、なんなら、明日は私が朝食作っても……」
「「却下」」
みなを言い終わる前に、即断られた。
梓どころか、耕一にもハモられて、肩を落として小さくなる千鶴。
梓はそれを見てニヤニヤ笑い、自分の部屋へと戻っていった。
「……姉さん」
肩を落としている千鶴に、楓が声を掛ける。
千鶴はそれに手を振って、答えた。
「あ、大丈夫。がんばってそのうち、ちゃんと美味しい料理を……」
しかしその言葉に、楓はふるふると首を振る。
「そんなことはどうでもいいから」
言われて千鶴は、サッと顔色が変わった。
「ど、どうでもいいって? あのね楓、これは私にとって切実な問題……」
今にも楓に食いつきそうな勢いの千鶴を、耕一が苦笑して制した。
「千鶴さん、それより切実なのは柳川のことだろ」
「あ、……ああ、そうね」
耕一に言われ、千鶴は我に返って、頷く。……不満そうな顔のままだったが。
「……それじゃ、2人とも私の部屋に」
千鶴の言葉に、耕一と楓は頷いた。
☆☆☆
ギィィ……。バタン。
ドアが、音を立てて閉まる。
「ただいま……」
柳川はそう呟いて、玄関を上がった。
帰ってくるとどうしても呟いてしまう。
『お帰りなさい、柳川さん』……そう返事が来ることをかすかに期待して。
しかし、今はこの部屋にいるのは柳川一人だ。
一緒に住んでいた貴之……
正確には隣り部屋の住人だが、彼は今は東京の精神病院に送られている。
夏のあの日から、彼は柳川の前からいなくなったのだ……。
あの時、耕一と楓が、貴之のいる部屋にやってきた。
楓の持つ能力で判ったものなのだが、そこで2人は誘拐された婦女子……
梓の後輩や雑誌のライターたちを見つけたのだ。
そして廃人同然の貴之と会い、また帰ってきた柳川と会った。
柳川は2人を殺そうとした。
狩猟者としての本能から……そして貴之と共にあるために。
だが、耕一により逆に重傷を負わされ、殺されかける。
……実際、耕一は彼を殺そうとしたのだが、貴之が止めたのだ。
柳川は、その時の言葉を今でも憶えている。
「俺はいいから、柳川さんを助けてよ」
それが、貴之の最後の言葉だった。
それ以後、病院に入った後でも貴之が言葉を話したことはないらしい。
耕一は、止めを刺さなかった。
ただ『今度また同じようなことがあれば、次は殺す』……そう言って、去っていった。
そしてしばらくして、警察が部屋へと入ってきた。
重傷で動けない柳川は、どうすることもできなかった。
貴之が連れていかれるのにも、言葉ひとつ吐くことはできなかったのだ。
ただ、その時の貴之は、笑みを浮かべていた……。
その後、傷の癒えた柳川は、仕事に復帰した。
それまでずっと彼が自分の中で闘っていたのが嘘のように、
それ以降は自分の中の鬼に苦しめられることはなかった。
耕一に殺されかけたことで、鬼が死んでしまったのか……
そう思わせるほど、その後の彼は穏やかだった。
貴之を失ったことに対しての心の空しさは、ずっとそのまま残っていたが……。
「だが、鬼は死んではいなかったのだな」
自嘲気味に笑い、柳川はコートを脱ぎ捨てた。
今……彼の心は、楽しさに満ちている。
命の炎が吹き上げるその魂の輝きを、瞳に焼き付けたい。
そのためなら、自分の命も捨てる気でいた。
しかし……。
「柏木初音。俺の姪か……」
今日会った初音のことを思い出していた。
話をしたのは初めてだ。
もっとも、千鶴とも楓とも、二言三言、言葉を交わしたに過ぎないが。
だが、千鶴、楓とも違う何かを、初音には感じた。
懐かしさにも似た感触だった。
彼は、彼の母を捨てた父、柏木耕平……千鶴や耕一たちの祖父を憎んでいた。
そしてその憎悪は、柏木家全てに対する憎悪になっている。
しかし、初音に対しては、その憎悪が首をもたげることはなかった。
「まあ……子供だからなのだろう。この先どうなるかは知らん」
柳川はそう呟き、服を全て脱いでバスルームへと向かった。
一日の汗と、自分でもよくわからない心のモヤモヤを洗い流すために。
彼は、まだ……真の覚醒を果たしてはいないのだ。
☆☆☆
翌日。いつも通り学校に登校した初音。
その帰りに、柳川に免許証を返そうと考えていた。
それには、まず連絡を取らなければ。
「隆山の警察署に電話すればいいのかな?」
学校の近くの公衆電話に入った初音は、テレホンカードを入れて警察署の番号を押す。
「……はい、隆山警察署です」
ほどなく、若い男の声が応対してきた。
初音は、多少緊張しながらも、用件を言う。
「えとですね、私、柏木初音と言いますけど。
柳川祐也さんってそちらにいらっしゃいますか?」
「柳川祐也、ですか? 少々お待ちください」
しばらく、保留している音が聞こえる。部署に問い合わせをしているのだろうか。
その間、すぐに柳川本人が出てもいいように、初音は言うべき言葉を反復していた。
「えと……昨日はありがとうございました、実はあの後柳川さんの免許証が……」
2、3回反復したところで、保留の音が止まり、相手の声が返ってきた。
「もしもし? 柏木さん?」
しかし、それは柳川の声ではなかった。中年の、あまりハリのない声だ。
「あ、はい」
初音は想定してない事態に多少当惑しながらも、返事をする。
「ああ、私、彼の同僚の長瀬と申しますが。いや、すいませんねぇ。
柳川君は今、休暇を取ってまして、しばらく休みなんですよ」
「休み?」
「……あっと、規定じゃ明かしちゃいけないんだった。
まあいいか……」
『必要以上に捜査に関わる人間の行動を明かしてはならない』
刑事課にはそういう規定があるのだが、長瀬は適当に流した。
「ええ、今日からしばらくリフレッシュ休暇になってます。
まあ、しばらく休ませてまたバリバリやって貰おう、ってことなんですがね」
その言葉を聞いて、初音は昨日の柳川の行動が多少理解できたような気がした。
休みならば、自分が危険なことをしているとは知られたくはないだろう。
……だが、彼の行動はそれだけでは片付けられるものではない、とも思っていた。
「しかし、先ほど柏木千鶴さん……あなたのお姉さんですよね?
彼女からも電話があったんですけどねぇ」
「え? ちづ……姉がですか?」
「ええ、同じように柳川君に用があると言われましてねぇ。
……休暇だと答えたら、そうですか、と」
初音に取って、それは全く意外な言葉だった。
初音のことに関係することであれば、千鶴はいつも初音に教えてから連絡等を行っていた。
しかし今回、初音に教えずに、柳川と連絡を取ろうとした……。
もしかしたら、それは初音と関係のないことが別にあるからなのか。
「ええと、柳川君に何か伝言があるのでしたらですね、
私の方から電話をしておきますけれど。どうしましょうかね?」
少し考え込み黙っていたからか、長瀬が申し訳なさそうにそう提案してきた。
しかし初音は、それを断る。
「いえ、個人的なことですので、そこまでしなくてもいいですから」
「そうですか。ああ、先ほども言いましたが、私、長瀬と申しまして。
一応柳川君の同僚ですので。何かあれば私に連絡ください」
「はい、ありがとうございました。それでは失礼します……」
丁寧に応対してくれた長瀬に礼を言い、初音は受話器を置いた。
直接、柳川と会おう。そう、初音は思っていた。
それは、免許証だけの問題じゃなく。
柳川の怪しい行動や、千鶴たちが何かを隠しているような素振り。
もう一度会うことで、それが何か判るのではないかという期待があった。
結局、初音は免許証に書いてある住所を頼りに、柳川のところを訪ねてみることにした。
☆☆☆
柳川の住んでいるマンションは、柏木家の最寄りの駅から電車で一駅。
そして駅を出て、郊外に向かって少し歩いたところにある。
そこに、今、千鶴と耕一が訪れていた。
部屋の前まで来た千鶴が、インターホンのボタンを押す。
……しばらく待って、ドアが開いた。
ワイシャツとスラックスをラフに着た柳川が、ドアの後ろから現れる。
「……」
千鶴と耕一の姿を確認した柳川は、無言のまま部屋の外に出てきた。
どうも、2人を中に入れる気はないようである。
しかし千鶴もそのことを気にも止めず、うやうやしく礼をした。
「こんにちは、柳川さん。
……それとも、祐也叔父さんとお呼びした方がよろしいですか?」
「……知っていたか」
多少、機嫌悪そうな目をして、千鶴を見る柳川。
千鶴はその視線を真っ向から見返し、言葉を続ける。
「ええ。同じような能力を持つのは、血縁の人しかいませんから。
耕一さんが以前にここに来た、少し後くらいに調べました」
「ふ、そうか。
だが、お前たちとの血の繋がりなど思い出したくもないのでな。
叔父さんはやめろ」
小さく手を振って拒絶の意を表す。それに、千鶴は小さく頷いた。
……彼女も、叔父などと呼びたいわけでもなかったのだろうから。
「そうですか。ところで今日、警察署に電話をしたら、
しばらく休暇と聞かされましたが……どうかしたんですか?」
「そんな与太話をしにきたわけじゃないだろう。用件は何だ?」
わずらわしいやり取りを嫌ってか、単刀直入に聞く柳川。
それに対し、千鶴は少し微笑み、言葉を返した。
「聞かずとも判ってらっしゃるでしょう?」
「いや。何のことだか、さっぱりだ」
柳川の返答に、一瞬、千鶴の微笑みが凍る。
そして次の瞬間、不快さをあらわにして言い立てた。
「とぼけないでください。
先日の、暴力団事務所で起きた大量殺人事件のことです」
「ああ、それか。それなら署で話くらいは聞いたな」
「……いい加減にしろ! お前がやったんだろう!」
柳川の返事に耕一は怒り、柳川の胸ぐらを掴み、叫んだ。
だが、柳川は表情を変えない。
「警察でも、今時こんな尋問の仕方はしないぞ。
人を疑うのなら、証拠を揃えるなり現場を押さえるなりするんだな」
そう言って、吊り上げようとする耕一の右腕を掴み、ゆっくりと引き剥がした。
その表情からは力を入れているようには見えなかったが、
本気になっている耕一の力を抑えるだけの力は出しているようである。
「お前……言ったはずだ! 同じことが次にあれば殺すってな!」
まだ自由な左手で、もう一度掴み返そうとする耕一。
しかし、その時それを制する声が。
「やめて、耕一お兄ちゃん!」
声の主は、初音だった。
「初音! どうしてここに?」
千鶴は驚いた表情で、初音に声を掛けた。
耕一も柳川も、驚いている様子だ。2人とも動きが止まっている。
「えと……柳川さんの免許証を拾ったから、届けに来たんだけど」
そう言って、初音は柳川と耕一の元に走り寄った。
「耕一お兄ちゃん、やめて。
私から見ても、変に言いがかりつけてるようにしか見えないよ……
せめて柳川さんがやったっていう証拠がなきゃ」
「初音ちゃん……?」
「ごめんね、今の話、全部聞いてた……」
耕一は絶句したまま、その場に立ち尽くした。
柳川は、そんな耕一の手をゆっくり離し、若干距離を取った。
「俺の免許証を拾ったって?」
「あ、はい。これです」
初音はコートのポケットから免許証入れを取り出し、柳川に手渡した。
「……あの時落としたのか。ありがとう、助かった」
柳川の口から『ありがとう』という言葉を聞いて、千鶴と耕一は驚いた。
……それ以上に、言った本人が驚いていた。
だが、初音はそれに気付かず、話しかける。
「い、いえ、いいんです。私もお礼言わなきゃならないですから……。
私のほうこそ、ありがとうございました」
「いや、大したことじゃない。職業柄、放っておけなかっただけだ」
「それで、あの……さっきの話なんですけど……」
「……詳しい事情はお前の姉に聞いてくれ。俺から話すことはない」
柳川は初音から目を逸らし、背を向ける。
そしてドアを開けながら、何かを思い出したように、千鶴に対し言葉を投げかけた。
「そうだ……。柏木千鶴、君に聞きたいことがある」
先ほどまでの『お前』ではなく、『君』という言葉を使った。
それは、刑事としての柳川祐也の言葉遣いである。
「何ですか? あなたに問われて、すぐ答えるとでもお思いですか?」
言葉を振られた千鶴は、険しい表情で返答した。
「そういきり立つな……。以前に柏木の血縁について調べたらしいが」
「それが、何か?」
「俺以外に、生きている血縁の者はいなかったのか?」
一瞬、千鶴は面食らう。
「……え?」
全く予想外の問いだったので、すぐに答えられない。
……もちろん答える義務もないのだが、千鶴は少し考え、返答した。
「いえ……ええ、少なくとも、確認できる範囲ではあなたしかいませんでした」
その返答を聞いて、少し間を置き今度は耕一に向かって問いを投げた。
「そうか、では……柏木耕一、お前は、最近よく眠れてるか?」
また謎な質問をされ、耕一は首をかしげる。
「あ? 何を言ってるんだ?」
「……その様子じゃ、ずっと夜は快眠か。羨ましい限りだな」
柳川は少し嘲ったような雰囲気で、口の端を歪めた。
それを見て、耕一が睨み返す。
「ああん? おい、何が言いたい……」
耕一が言い終わる前に、柳川はドアの中へと入っていく。
「それじゃ、失礼する」
「あっ」
バタン、と扉が閉まった。
耕一が慌ててドアノブに手を掛けるが、既に鍵を閉められ開けることはできない。
「あっ、おい! まだ話は終わってないぞ!」
耕一はガンガン、と扉を叩いたが何も返ってはこない。
「耕一さん、もういいです。今日のところは戻りましょう」
「でも、このまま放っておくのは……」
耕一の言葉に首を振り、初音の肩に手を添える千鶴。
「彼の言った通り、証拠を揃えるか現場を抑えるかしましょう。
それに、初音に事情を説明しないといけないし」
「……了解」
耕一は釈然としない表情のまま、頷いた。
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