雨の音。
雨が降っている音がする。
まるで僕の心を洗い流すかのように、強い雨が降っているのがわかる。
でもどんなに雨に打たれても、僕の心の奥は洗い流すことはできない。
それはどうしても流せない過去。
いや、流してはいけない過去。
僕はずっとこの過去を背負っていかなくてはならない。
なぜなら僕は、取り返しのつかないことをしたからだ。
僕は、この罪を償わなくてはいけない。
償わなくてはいけない。
妹のために。
彼のために。
彼女のために。
そして……僕自身のために……。
一、目覚め
「お兄ちゃん……? 朝だよ……」
瑠璃子の声。
……僕の愛する妹の声だ。
その声に起こされ、まどろみの中から意識が浮き上がってくる。
「瑠璃子……おはよう」
僕は、ゆっくりと起き上がる。
そして、ベッドの横で僕を見つめている瑠璃子に笑顔を見せた。
「おはよう、お兄ちゃん。……今日は旅行に行く日だよ」
笑顔を返してくれる瑠璃子。
そう。今日僕たちは、太田さん達と共に旅行に行くのだ。
瑠璃子はこの旅行を何日も前から楽しみにしていた。
「わかってるよ」
僕は笑いながら、布団から起き上がる。
「……雨が降ってるのかい?」
ふと、窓から洩れる外からの雨音を耳にした僕は、瑠璃子に聞いてみた。
「うん……晴れなくて残念だね」
実に残念そうに、呟く瑠璃子。
「大丈夫、天気予報ではあっちは晴れるそうだから……」
僕はそんな瑠璃子に、慰めの言葉をかけた。
瑠璃子は微笑み、頷く。
「そうだね」
僕はそれに頷き返し、ベッドから足を下ろした。
「すぐに用意するから、瑠璃子も準備をしてなさい」
「うん」
瑠璃子は僕の言葉に頷くと、自分の部屋へと戻っていった。
それにしても……また同じ夢を見てしまった。
昔を悔いる夢。
妹、彼、彼女……。みんなにしてしまったことを悔いる夢。
でも、何を悔いているのか……誰に何をしてしまったか……。
起きてしまうと、どうしても思い出せない。
まるで、鍵のかかった引き出しにしまっているかのような、そんな感じだ。
そして後に残るのは、強い後悔の念。
……でも、夢を見たくないわけではない。
むしろ、その瞬間だけ失った自分を取り戻せるようで、妙な心地良ささえある。
僕は何を悔いているのだろう? 何を償いたいのだろう?
それを知りたい。そして、失った僕を取り戻したい。
そうすれば、僕は……本当の僕になれる……。
「お兄ちゃん? 用意できた?」
瑠璃子の声に、はっと現実に引き戻される。
僕が着替えていると思ったのか、瑠璃子は扉の向こうから声を掛けたみたいだった。
「ちょ、ちょっと待ってて。すぐ用意するよ」
慌てて荷物の側にたたんでおいた服に手を伸ばし、僕はアタフタと着替え始めた。
シトシトと降る雨の中、僕と瑠璃子は駅に着いた。
駅の入り口ですでに到着していた太田さん達が出迎えてくれる。
「遅いですよ、拓也さん」
太田さんが少し頬を膨らませて拗ねたような表情を見せた。
彼女のフルネームは太田香奈子。
僕が以前生徒会長を務めていた時に、副会長をしていた娘だ。
そして、一応だが僕と付き合っていることになっている。
「ごめんごめん、ちょっと寝坊しちゃったんだ」
僕の弁解に、今度はその横にいた長髪の女の子が反応した。
「月島先輩でも寝坊するんだぁ。何だか意外ですねぇ〜」
彼女は新城沙織さん。バレー部のエースとして活躍しているようだ。
そしてそのまた横にいるのが長瀬祐介君。
「さ、沙織ちゃん……。それは失礼だよ……」
「そう? 素直な感想なんだけど」
祐介君の言葉に、新城さんは小首を傾げた。
新城さんのその態度に、苦笑する祐介君。
「素直とか、そういう問題じゃないような」
以前から、祐介君は瑠璃子と仲がいいようだった。
前に彼と会った時は、あくまでも瑠璃子とは友達だ、と言っていた。
その時は僕もそれが本当かどうか怪しんだ……が。
今回の旅行に新城さんという恋人を一緒に連れてくるあたり、まんざら嘘でもないようだ。
「でも、雨が降っちゃって残念ですね……」
そして太田さんの隣りにいる眼鏡の子が藍原瑞穂さん。
彼女も僕が生徒会長の時に書記を務めてくれていた子だ。
この4人に僕と瑠璃子を加えた6人が、今回の旅行のメンバーだ。
「大丈夫、あっちに行けば晴れるよ」
瑠璃子が、そう藍原さんに微笑んだ。根拠は僕の朝の言葉だろうか?
「天気予報じゃ、降ってるのはここらへん一帯だけみたい」
祐介君が、瑠璃子の言葉に頷き、付け加えた。
それを聞いて、太田さんが安心の声を上げる。
「あぁ、良かった。せっかくの連休を使っての旅行なんだから、雨は勘弁よねぇ〜」
新城さんはうんうんと頷いた。
確かに、旅行の時くらいは晴れてほしい。それは僕も同じだった。
「あ、そろそろ電車が来る頃ですよ」
腕時計を見て、藍原さんが皆に告げる。
しかし僕は思いに耽っていて、その言葉を聞き流していた。
今回の旅行だが、まず始めに『旅行に行きたい』と言い出したのが瑠璃子。
そして、その時に一緒にいた太田さんがそれに大賛成。
2人の連れてけコールに押し切られる形で僕がOKを出すと……
今度は瑠璃子が祐介君と新城さんを、太田さんが藍原さんを連れていこう、
そう言い出し、結局この人数になってしまったのだ。
僕としては、少人数で静かな旅の方が良かったのだが……。
「拓也さーん」
……その太田さんの声を聞いて、太田さんが一緒では
静かな旅は期待できないかな、と思い直して苦笑した。
「拓也さーん、置いてっちゃいますよー」
もう一度声をかけられて、はっと周りを見ると、すでに誰もいなかった。
すでにみんなは、改札を通ってホームに入ってしまっている。
「ちょ、ちょっと待って。荷物が……」
僕は大きいバッグ2つ(瑠璃子のバッグも持っている)
を抱えながらワタワタとホームへ向かった。
二、やがて晴れる空
ゴトンゴトン……。
電車の独特のリズムが、僕らを揺らす。
休日ということで多少混み合った特急電車の中。
僕らは、運良くみんな固まって乗れる場所を確保できた。
左側の向かい合った座席に僕と太田さん、瑠璃子、藍原さんが座る。
その右側の座席には見知らぬ老夫婦との相席で祐介君、新城さんが座っている。
祐介君ら2人は老夫婦と何か喋っている。
二人の照れ臭そうにしている様子からみるに……。
あの老夫婦に、恋人同士の旅行なのか、などと言われているのだろうか。
「何だか、いい雰囲気ですよね〜」
僕の視線の先を追ったか、藍原さんが話し掛ける。
「そうだね。可愛い彼女と一緒で、祐介君が羨ましいね」
つい口が滑り、そんなことを言ってしまった。
その途端、隣りに座っている太田さんが恨めしそうな声で僕に訴えかける。
「拓也さぁ〜ん。それは私が可愛くないってことですかぁ?」
「イヤイヤ、そんなことは全く思ってないよ」
「ならいいんですけどっ」
そんな僕らのやり取りを、藍原さんはニコニコしながら見ている。
さて、先ほどから会話の無い瑠璃子はというと……。
座ってすぐ文庫本を取り出してから、僕の目の前でずっとそれを読み耽っていた。
「瑠璃子ちゃん、それって何の本?」
少し会話が途切れた時、藍原さんが興味を引かれたのか。
隣りに座る瑠璃子の、その手にしている本を覗き込んだ。
「……こういう本だよ」
藍原さんの質問に、瑠璃子はカバーを外し表紙を見せる。
「あ、それって中世ファンタジーのお話だよね。神様の娘が活躍するお話」
「うん」
藍原さんの言葉に、微笑みながら頷く瑠璃子。
「私も好きだよ、そのお話」
「え? どういう本?」
2人の会話に太田さんも興味を持ったのか、腰を浮かしてそれを覗き込む。
その時、僕はふと太田さんの横顔を見てしまい、僕は顔を背けた。
太田さんの頬から下の方……顎の横ぐらいにある傷痕。
それを見たのだ。
良く見なければ気付かないくらい、それは薄い。
しかし僕はそれを直視できなかった。
それを見るたびに、いつも僕は強い嫌悪感を抱いてしまう。
……僕がその傷痕を初めて見たのは、病院を退院した太田さんに会った時。
ノイローゼで入院したらしい彼女だったが、その後は奇跡の回復を見せた。
しばらくの入院生活ののち、何もなかったかのように高校生活に戻ることができた。
彼女が入院中は、僕も病院通いをしていたり、大学への入学準備などで忙しく。
また彼女が人と会いたがらなかったようで、僕らは顔を合わせることはなかった。
そして、彼女が退院した日。
僕は見舞いも兼ねて、彼女に会いに行った。
彼女は驚いていたが、僕が会いに来てくれたことを素直に喜んでいた。
『私も憶えてないんですけど、多分、勉強のしすぎでストレスが溜まったんですよ』
彼女はそう言って、以前と変わらぬ笑顔を見せてくれた。
そして他愛もない話を少しして、僕が帰ろうとした時。
……見てしまったのだ。その傷痕を。
呆然とした僕を見て、彼女はハッと傷痕を手で隠した。
彼女も、その傷痕を見られたくなかったのだろう。
その時の僕は、すぐ彼女に謝り、トイレに駆け込んだ。
情けない話だが、僕は胃の中が空っぽになるまで、吐き続けた。
その後、彼女を傷付けないように何とか言い繕っておいたが……。
それ以来、彼女の横顔をまともには見れないようになっていた。
見るたびに、なぜか自分に対して強い嫌悪感を抱いてしまう。
まるでその傷痕自体が、僕を責めているかのような……。
「あ、それなら私も読んだよ。面白いよね〜」
……太田さんが自分の座席に座り直す。
今の僕の様子には気付いていないようだった。
「……月島さん、どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」
どうやら向かい合っていた藍原さんは気付いたらしく、心配そうに僕の顔を伺う。
僕は手を振り、安心させようとでまかせを言った。
「い、いや。久しぶりに電車に乗ったんから、軽く酔ったんだと思うよ」
すると今度は太田さんが心配そうな顔をする。
「乗り物酔いなら、薬ありますけど……」
太田さんの気遣いの言葉を手で制し、僕は無理に笑顔を作った。
「いや、ちょっとお茶を飲めば大丈夫だよ」
そう言いながら、来る前に買っておいたペットボトルのお茶を開け、一口飲む。
ふう、と一息つき、胸を押さえた。
「朝ご飯ちゃんと食べました? 何か入ってないと酔いやすいですよ」
「いや、うん、まあ……一応は」
太田さんの言葉に、僕は顔を合わせずにあいまいに答える。
顔色を見られまいとして、僕の顔は自然と外の景色に向いた。
「……あ、雨がやんだね」
瑠璃子も窓から見える空を見上げて、笑顔を見せる。
見上げた空は、どんよりとした曇り空から、白い雲に覆われた空へと変わっていく。
時折晴れ間も覗く、旅行をするには上々の天気になっていった。
「ホラ、言った通りに晴れたでしょう?」
太田さんが藍原さんにそう言って胸を張る。
……確か、駅での会話で晴れると言ったのは瑠璃子と祐介君だったはずだが。
その前に話してたのだろうか?
「……香奈子ちゃん、『ずっと雨だったらどうしよう』としか言ってなかったような……」
藍原さんが苦笑しながらそう返した。
……別に前に話してたわけではないらしい。
「え? 言ったよ〜?」
「言ってないよ……」
太田さんの言葉に、藍原さんは苦笑しながらもう一度答えた。
……これは太田さんの『癖』だ。
人から聞いた言葉を、自分で言ったと勘違いする。
副会長をしていた時、有能ではあったが時々それでポカをやらかしていた。
人に影響されやすい、ということなのだろうか。
「そうだっけ? ま、どっちにしろ晴れたからいいけど」
あっけらかんとした表情で笑う太田さん。
それにつられて藍原さんも笑顔を見せた。
「楽しみですねっ、温泉♪」
僕の方にも太田さんはその笑顔を向けてきた。
僕はそれに苦笑して、軽く頷く。
今回の旅行の行先は信州の温泉旅館。
太田さんが言うには穴場中の穴場で、かなり山の中にあるとのことだった。
しかも行くまでの道は、途中で車も通れないようなところを歩くらしい。
僕は別な、交通の便のいい場所にしようと言ったのだけど。
太田さんも瑠璃子もどうしてもそこがいいと言ってきかなかった。
その時に言ってたのは美容にいいと評判があるとかなんとか……。
僕には全く関係なさそうなことだった。
……まあ、交通が不便な以外は宿泊料金も安くロケーションも良いみたいで。
瑠璃子の分の宿泊費を全額持つ僕としても、安いというのは歓迎ではあったが。
途中で何かが起きたりしなければ、楽しい旅行になりそうだ。
三、迷い道、誘い道
「ところが起きるのが現実というものか……」
「ん? 月島さん、何か言いました?」
僕の独り言に、祐介君が歩みを止めて反応した。
駅を出てからというもの、ずっと歩き詰めで、祐介君も疲れた顔をしている。
「いや、ちょっと独り言さ……」
心配しないように笑顔で返したが、声はちょっと疲れた感じになっていたか。
逆に祐介君は心配げな表情を見せている。
「太田さん……。ねえ、まだなの?」
黙々と歩いていた新城さんもさすがに疲れたのか、先頭を歩く太田さんに声を掛けた。
「ええと……。距離的にはそろそろ着く頃なんだけど……」
振り返った太田さんも、疲れ切った声でそれだけ言うとまた正面を向いて歩き出す。
瑠璃子も藍原さんも疲れ切った様子で、もはや顔を上げる余裕もなくトボトボと歩むのみだ。
どうやら、僕らは……道に迷ったようだった。
「やっぱり僕ら、迷ったんじゃないかな……?」
今さらのことだが、僕はそう言わずにはいられなかった。
さすがに僕も、疲れが目立ってきていた。
「……もう少し行けば、着きますよ……多分」
最初の頃は自信満々だった太田さんも、『多分』とか弱気な言葉が目立つ。
しかし、まだまだ先に続く道を見る限り、しばらくは着きそうもないことは明白だった。
……すでに日は傾き、綺麗な夕焼けを作っている。
しかし、その夕焼けに目を向ける者は誰もいない。
皆、足元を見つめて歩き続けるのみだ。
僕と並んで後ろを歩いていた祐介君が、ポツリと呟いた。
「やっぱり、最初のあそこの道を曲がるべきだったんじゃ……」
祐介君が言っているのは、この小道に入って最初の頃にあった分かれ道のことだろう。
その時に幅が広い方の道を選んだわけだったが、そこで間違ったのでは、と思っているのか。
……祐介君の言葉に、太田さんがピタリと歩みを止め振り向いた。
「ちょっと長瀬君、今更そんなことを言う!?
あの時わたしが『こっちの道だよ』って言った時、何も言わなかったじゃない!」
疲れもピークに来て、かなりイラついているようだ。
太田さんの怒声に、祐介君も言い返す。
「太田さんが自信満々に言うから従っただけだよ!
先頭行くんだからもっとちゃんと案内してくれよ!」
「何よ! それじゃ長瀬君が先頭歩きなさいよ!」
「迷ってから先頭歩いたってしょうがないよ!」
他の人は2人のやりとりを、黙って見ているだけだ。
……いけない。疲れから、皆かなり精神的にも参っているようだ。
「2人とも、やめるんだ!」
少し抑え目に言ったつもりだったが、予想外に強い口調になってしまった。
そんなつもりはなかったが、僕もかなり参っているのかもしれない。
何か言いたげな2人を制し、僕は口調を柔らかくする努力をし、話を続けた。
「そんなことしていても疲れるだけだよ。
それより、この状況をどうするか考えよう……。もう、日が暮れるまで時間がない」
僕の言葉に、皆の目が太陽へ向く。
すでに太陽は、一部が山にかかっていた。
もうすぐ日が沈む。そうすれば街灯もない暗い道を歩くようになってしまう。
人も車も全く通らず、誰かに助けを求めることもできない。
下手をすれば、遭難、なんて事態にもなりかねない。
状況は、かなり深刻だった。
「こ、こういう時は携帯で警察に連絡を……」
気を取り直して新城さんが、懐から携帯電話を取り出す。
「……こんなとこじゃ、電波が届かないんじゃ……」
ここまで無言だった藍原さんが、ボソッと言った瞬間、新城さんの動きが止まる。
彼女は、クルリと後ろを向いて携帯を見たのち、イソイソとそれをバッグに戻した。
どうやら、圏外だったようだ。
「……っていうギャグは置いといて、どうしましょうね?」
引きつった笑顔を見せる新城さん。
どう見てもギャグでやっていたとは思えなかったが……。
しかし僕らはその言葉にツッコミを入れる余裕はなく、そのまま考え込んだ。
「やっぱり来た道を戻るしかないんじゃないですか?」
その祐介君の言葉に、頷く者3名、首を振る者1名。
頷いたのは僕と藍原さん、新城さん。そして、首を振ったのは太田さんだった。
みんなの視線が太田さんに集まる。首を振った理由を待っているのだ。
それを見て太田さんは、ひとつ呼吸を置き、口を開いた。
「今から戻るって言ってももう遅いし、みんなの体力が持たないですよ」
さっきまでのイラついている様子とは違った、落ち着き払った口調だった。
彼女の意見も確かにもっともだろう。
しかし、戻る以外の選択肢がない以上、どうしようもないのではないか。
……僕がそう言おうと思った時、太田さんは道の向こうを指差した。
「あそこの建物、使えませんかね?」
その言葉に、みんな一斉に目を凝らしそこを見る。
確かに太田さんの言葉通り、そこには建物があった。
少し古っぽいが、立派な作りの洋館のようだ。ここからは、それほど遠いところにはない。
「すごい香奈子ちゃん! よく見つけたね!」
今まで疲れ切った表情をしていたみんなの顔が、安心からか笑顔になった。
「えへへ、夕日が出てた時は眩しくて見えなかったんだけど、今見たら見つけたんだよ」
「人、住んでますかね?」
祐介君の言葉に、手をひらひらさせて太田さんは笑顔で返した。
「いいじゃない長瀬くん、住んでても住んでなくても。
住んでたら一言言えばいいし、誰もいなかったらそのままお邪魔しちゃえばいいのよ」
「そうだね、人がいてもまさか追い返したりはしないでしょ」
とは新城さんの言葉。
もはや、みんなあそこに泊めてもらうつもりになっているようだった。
僕も、戻るよりはるかにマシな手だとは思う。
……しかし、瑠璃子だけはなぜか浮かない顔をしていた。
「どうした瑠璃子?」
瑠璃子は何か不安げな表情で、イヤイヤと首を振った。
「何か……イヤな感じがする」
その言葉に、喜んでいた新城さんが動きを止めた。
「え……。そ、それって……何かいる、とか……?」
彼女の言っている『何か』とはどうやら幽霊とか、そんな感じの物のようだ。
さっきの笑顔から一転、とても怯えた表情になっている。
そんな新城さんや瑠璃子の不安を少しでも払拭させるよう、僕は笑って答えた。
「大丈夫、みんなが一緒にいれば。何も怖くないよ」
瑠璃子の頭にポン、と手を乗せ、不安を取り除くように撫でてやる。
「……第一、みんな疲れてるんだし。
携帯食料もあるから、それを食べて休ませてもらおう、な、瑠璃子?」
瑠璃子はまだイヤそうな顔をしていたが、納得したのかコクン、と頷いた。
「よし、それじゃあのお館へ向かって前進!」
ちょっと先の方で待っていた太田さんが、びしっと指差し号令を掛ける。
どうやら彼女は、早く行きたくてウズウズしていたらしい。
みんなを置いていくほどの早歩きですたすたと行ってしまった。
すでに太陽は沈み、辺りは暗くなりかけている。
僕らは足元に気をつけながら、館の見える方へ歩みを進めた。
四、黄昏(たそがれ)の館
館の玄関まで辿り着いた僕らは、その佇まいを見て溜め息をついた。
遠く見てた分よりも、とても立派で大きな造り。
小さな小学校くらいの大きさはあるようだ。
庭も広く、その造り方から建てた人間の趣味の良さがわかる。
これで手入れがされてたら、僕らはヨーロッパの貴族の館へ来たのかと間違うだろう。
しかし、庭は荒れ、建物には草木のツルが絡み付き、その華麗さは失われていた。
見たところ、人は住んでいそうな様子は見えない。
「拓也さん、鍵、開いてますよ」
太田さんのその言葉で玄関に目を移すと、彼女がすでに扉を開けていた。
「こ、こら、まず挨拶してから開けるのが普通じゃないか」
僕がたしなめると、太田さんはアッと気付いた顔になった。
……が、すぐ悪戯っぽい笑顔を見せた。
「まあ、入ってから挨拶してもいいじゃないですか。
どうせ人が住んでそうな様子じゃないですし」
「そういう問題じゃないんだが……僕が言ってるのは倫理的な問題で……」
僕の言葉を遮って、太田さんが中を指差す。
「とりあえずみんな中に入っちゃいましょうよ」
大きな扉を一杯に開け、みんなを入れようとする太田さん。
僕の説教を聞こうとするつもりは全くないようだった。
「中、暗いですね」
おそるおそる中を覗き込む藍原さん。
目を凝らしても、うっすらとしか見えず何があるのかは全然見えない。
「そういえば、荷物の中に懐中電灯が……」
緊急用にバッグに入れておいた、懐中電灯のことを思い出す。
ポンポン。
……誰かが肩を叩いたのを感じ、僕は振り向いた。
いきなり、光に照らし出された恐ろしい顔がヌッと現れた。
「わっっっっ!?」
驚愕のあまり、半歩ほど後ずさりしてしまう。
「お兄ちゃん、はい、懐中電灯」
その恐ろしい顔はあろうことか瑠璃子の声で僕に話しかけてくる。
……瑠璃子の声?
「どうしたんですか月島さん、瑠璃子さんですよ?」
祐介君の言葉で我に返る。
それは、瑠璃子が懐中電灯の光を顔に当てていただけだったのだ。
「瑠璃子……驚かせないでくれ。心臓が止まるかと思った」
胸を撫で下ろしながら、僕は手を差し出す。
瑠璃子はその手に懐中電灯を差し出した。
「ごめんね、お兄ちゃん」
少し申し訳なさそうな顔の瑠璃子。
……どうやら、冗談のつもりはなかったようだ。
「いや、いいんだ。懐中電灯、ありがとう」
受け取ったその懐中電灯を中に向け、一歩、足を踏み入れた。
懐中電灯の光が2本、辺りを照らし出す。
用意のいい藍原さんが1本、持ってきていたようだった。
「失礼しまーす!」
「誰かいませんかー!」
一応の挨拶をしながら、中へと入っていく。
しかし、ぼくらの再三の挨拶にも返事の返ってくる様子はない。
玄関のホールらしきところの真ん中に僕らは集まった。
「どうも、人は住んでなさそうですね」
祐介君の言葉に、僕は頷いた。
「あ、ランプがありますよ?」
藍原さんの言葉に振り向くと、そこには懐中電灯の光に照らし出された、
少し古めの作りのランプが3つあった。
「……使えるかな?」
太田さんが藍原さんと一緒にそのランプに近付く。
そしてその1つを手に取ると、藍原さんは光を当ててそれを調べてみる。
「……オイルも入ってますし、使えそうですね。ホコリもそれほど被ってませんし……」
藍原さんが振り返って僕に声をかけた。
「月島さん、マッチかライターあります?」
「ん、ああ……これでいいかい?」
バッグの中に入れていたマッチを藍原さんに手渡す。
すると、藍原さんは手馴れた手つきで、ランプに灯を燈す。
「慣れてるわね、瑞穂」
「あ、家に古いランプがあったりするから、それで……」
太田さんの言葉に答えながら、そのまま、2つ目、3つ目のランプに灯を燈す。
その灯が、断片的に照らし出す懐中電灯の光でしか判らなかった部屋を、
多少薄暗くもはっきりと映し出した。
「へえ……」
誰かが感嘆の声をあげた。それももっともなことだと、僕も思う。
ここは2階までの吹抜けのホールになっているようで、右と左に1つずつ階段が付いている。
そして床は見た目にも高そうな絨毯。
右の方には応接用だと思えるテーブルがあり、それも趣味が良さそうだ。
キチンと手入れがされていればホテルと間違えてもおかしくない造りだった。
「今日行こうとしてた旅館よりもいい造りね……」
「太田さん、それを言っちゃおしまいだよ」
その太田さんと僕の掛け合いを聞いたからか、それとも周りが明るくなったからか。
みんなの顔から不安げな様子がなくなった。
今まで怖がって祐介君にべったりと貼り付いていた新城さんも、笑顔を見せる。
「あの、これくらいのところだったら、使えそうな寝室とかあるんじゃないですか?
そこで休めればいいと思いますけど、どうでしょう?」
新城さんの提案に、太田さんが同調する。
「それいいわね〜。探してみません?」
「うん、まあ……柔らかいベッドで休めればそれに越したことはないけど」
そこまで上手く事は進まない、とは思いながらも、みんなで探すことにした。
寝室とかは2階にあるものだ、と太田さんが言い張るので、とりあえず2階から調べる。
僕は多少は探し回らなくてはいけないと思っていた……が。
2階に上がってすぐの部屋に入ってみると、ベッドが2つあった。
続いてその隣りと向かいの部屋にも、それぞれ2つずつ揃っている。
どれも放置されていたにしては綺麗で、多少ホコリを落とせば十分使えるようだった。
部屋を調べると新しめの毛布もあり、一晩休むには十分過ぎるほど条件が整っていた。
しかし、これはまるで……。
「まるで、どうぞ使ってください、と言われてるかのようですね」
一緒に部屋を調べていた藍原さんが、僕の気持ちを代弁するかのように呟いた。
僕と同じように、少し不気味な気持ちになっているのかもしれない。
「あれじゃない? どっかの人が、緊急避難用で用意してたとか」
太田さんがベッドを綺麗にしながら、そう説明付けた。
……どうやら彼女はこのベッドが気に入ったらしく、丁寧にホコリを落としている。
「うん、まあそう考えれば説明がつくんだろうけど……」
僕はどうもイヤな感じがして、瑠璃子が不安がっていたことも気にかかり……。
僕の言葉は歯切れが悪くなっていた。
「そんなことより、とりあえず部屋割を決めましょう?」
僕の不安など知らない太田さんは、別行動の祐介君たちを呼びに行った。
6人集まったところで、部屋割を決める。
とりあえず、僕と祐介君の男2人で1部屋。瑠璃子と太田さんで1部屋。
新城さんと藍原さんで1部屋、ということになった。
……太田さんが気を利かせて、新城さんと祐介君を一緒にしようと言ったが。
祐介君が真っ赤になって辞退したのでこういう部屋割になった。
そして、各部屋にランプを一つずつ、懐中電灯は女の子の部屋に預けることを決めた。
その後、持ってきていた携帯食料で、粗末ながらみんなで夕食を取る。
小さい頃のキャンプのようで、それまでの経緯も忘れ、楽しいひとときを過ごした。
「じゃ、何かあったら僕らのところに来ていいから」
「はーい。おやすみなさい」
誰かが持ってきていたトランプで多少時間を潰した後。
明日のために早めに休もうということになった。
みんなが無事に部屋へ収まったのを確認してから、僕と祐介君も部屋に戻る。
「今日は道に迷って、どうなっちゃうかと思いましたけど……。
でも、それなりに楽しめてよかったですね」
「うん、そうだね……。それじゃ僕らも早めに寝て、明日に備えよう」
僕らはそれぞれベッドに収まり、脇に置いておいたランプの灯を吹き消す。
少々ホコリっぽいが、毛布の暖かさもベッドの感触も思いのほか気持ちいい。
長く歩き続けた疲れもあってか、僕の意識はすぐに眠りに落ちていった。
五、悪魔、そして覚醒
『お兄ちゃん……』
瑠璃子?
瑠璃子が、僕に話しかけている。
『お兄ちゃんは、自分を取り戻したくないの?』
……自分を取り戻す……。
『お兄ちゃんは思い出せない何かを求めているんでしょう?』
そう、僕は……僕の中の失われた僕を探しているんだ……。
『私がそれを思い出させてあげるよ……だから私に全てを任せて……』
瑠璃子に全てを……。
『そう、全てを任せて……さあ……私の手を取って……』
優しげな表情を見せ、瑠璃子は、その手を僕に向けていた。
瑠璃子……ああ、僕は瑠璃子に全てを……。
「月島さん!」
その声で、僕は深い眠りの中から意識を戻す。
すぐそばにあった瑠璃子の手は、意識を取り戻すにつれてかき消えていく。
……その消える瞬間、何故かその手が黒い影に変わったように思えた。
「月島さん、大丈夫ですか?」
耳元で誰かが僕に話しかけている。
……ゆっくりと目を開けると、そばには祐介君の顔があった。
とても不安げな顔で僕を見ている。
「祐介君……? どうした、急に……」
多少寝ぼけた頭を軽く振り、僕はその場に起き上がる。
祐介君が点けたのか、ランプに灯が燈っていた。
「月島さんから、何かイヤな気が……」
「気?」
僕の言葉に、祐介君は何故か慌てて、言葉を言い直した。
「いえ、そうじゃなくて、ええと、何だかうなされてるみたいだったんで」
「うなされる……? いや、そんなことはなかったけど」
瑠璃子の出てきた夢で、うなされるわけはない。
「そうですか? なら、いいんですけど。すいませんでした、起こしたりして」
「いや、別にいいよ」
恐縮する祐介君に、僕は笑顔を見せる。
「ランプ消しますね」
祐介君がランプに手を伸ばした、その時……。
「すいません! 拓也さん、起きてます!?」
扉を開けて中に入ってきたのは、隣りの部屋にいるはずの太田さんだった。
「太田さん? どうしたんだい?」
太田さんは取り乱した様子だ。何かが起きたのか。
「あのっ、瑠璃子ちゃんが、いないんですっ!」
瑠璃子が……いない?
「……トイレとかじゃなくて?」
僕のその言葉に、太田さんは何度も首を振った。
「でも! 懐中電灯も、ランプも、部屋に置いたままだったんです!」
確かに、預けておいた懐中電灯は、今は太田さんの手に握られていた。
「部屋もよく見たかい?」
僕は、太田さんの勘違いなんじゃないか、と思っていた。
いや、そう思いたかった。
しかし太田さんの口からは、それを否定する言葉しか出てこない。
「ランプを点けて周りを見ましたけど、いなかったです」
その時、僕の背後で目を閉じ何かを考えていた様子の祐介君が、何かを呟いた。
「反応が……ない」
その祐介君の呟きを、僕の耳は捉えていた。
「反応……って?」
僕が聞き返すと、慌てて祐介君は言い繕う。
「い、いや、何でもないです。それより瑠璃子さんを探しましょう」
立ち上がって外へ向かおうとする祐介君を、僕は手で制した。
「いや、僕が探しにいくよ。祐介君は太田さんと一緒にいてあげてくれ」
「でも……」
祐介君の言葉を制し、続ける。
「いや、瑠璃子の兄である僕に任せてくれ。新城さんと藍原さんも君が守るんだ」
まだ何か言いたそうだったが、祐介君は僕の顔を見て頷いた。
「……わかりました」
僕は祐介君の返事を確認すると、脱いでいた上着を羽織る。
「新城さんと藍原さんは眠っていたらそのままにしておいてあげるんだ。
何もなければそれに越したことはないから」
「はい。……気を付けてください」
ひどく険しい表情で、祐介君はそう忠告した。
「じゃ、懐中電灯を借りるよ」
僕のその言葉に、太田さんが懐中電灯を差し出した。
それを受け取ろうとすると、太田さんは心配そうな顔で僕を見つめる。
僕はそんな彼女を少しでも安心させようと、頭を軽くポンポンと叩いてあげる。
それによって、いくぶん彼女の表情が和らいだ。
「それじゃ」
僕は太田さんの手から懐中電灯を受け取ると、部屋の外へと出ていった。
……何かアテがあって、1人出てきたわけじゃなかった。
ただ、瑠璃子を守るのは僕だ、そんな気持ちだけが僕を動かしていた。
「瑠璃子ー。いないのかー」
2階の各部屋を開けて調べながら、瑠璃子を呼ぶ。
しかし、2階のどの部屋にも瑠璃子の姿はない。
2階の部屋を全て探してしまい、1階に下りていった時。
……ん?
何かが、僕を呼んだような気がした。
声、ではない。『何か』が呼んでいる。
そう、例えれば電気か電波のようなものが……。
チリチリチリ……というその形容しがたい音に導かれ、僕は館の外へ出た。
空には月が昇り、雲ひとつなく、懐中電灯が必要ないくらい明るかった。
そして、人影……。
「瑠璃子……?」
そこに、瑠璃子はいた。
僕の方を向いて、その場に佇んでいる。
「瑠璃子、どうしたんだ。心配したぞ」
ほっと一息つき、そう言いながら瑠璃子の方へと歩いていこうとする。
すると、瑠璃子の手がすっと上がり、僕を指差した。
……? なんだ? 身体が……動かない?
瑠璃子へ近付こうとする意識はあるのだが、身体が言うことを聞かない。
まるで足が地面に貼り付いてしまったかのように。
「ふ、ふふふ……」
瑠璃子の口から、含み笑いが洩れる。
今までに瑠璃子から、そんな笑いを聴いたことはなかった。
「瑠璃子……? どうした?」
おかしい。いつもの瑠璃子と様子が全然違う。
僕の声が聞こえた様子もなく、瑠璃子は一人笑い続ける。
「いいぞ、この力……。
この力があれば、まどろっこしく一人一人に取り憑かずとも、
大量に贄(ニエ)を殺すことができる……。ふふふ、ははは……」
何なんだ? 瑠璃子が訳の判らないことを言っている……。
それに、どうにも身体が動かない。これは夢なのか?
……色々なことが頭を駆け巡った。
「おお、すまなかったな。君は何が起こっているのかわからないようだな?」
瑠璃子が不敵な笑みを浮かべる。
……違う。瑠璃子じゃない。瑠璃子は、こんな笑い方をしない。
「お前……瑠璃子じゃないな!?」
「ふふふ、お前の質問に答えよう。
……この身体は瑠璃子だが、今この身体を支配しているのは私だ」
支配……? 何者かが取り憑いている、とでも言うのか……。
「お前は……何なんだ!? なぜ瑠璃子に……」
「私は……貴様らの世界で言うならば『悪魔』だ。
この女には、贄として死んでもらうつもりで取り憑いたのだが……」
瑠璃子は、にわかには信じられない言葉を並べていく。
悪魔、贄、取り憑き……全て非科学的な言葉だ。
「贄……生贄だとでも言うのか!? 何のために!?」
夢のような非現実的な状況。
しかし、肌に感られる夜の冷気や、踏みしめている大地の感触。
それらが、これは現実だとはっきり教えている。
瑠璃子が似つかわしくない笑みを浮かべ、僕に語りかける。
「我が主のこの世界への降臨のために、贄が必要なのだよ。
そのために私はあの館に住みつき、主の復活のために迷い込む輩を殺してきたのだ」
なんだって……? それじゃあ、僕らも同じように……殺される?
「僕らを殺すというのか!? みんなを!?」
しかし僕の言葉に、瑠璃子は意外にも首を振る。
「いや。最初はそのつもりだったが、この娘の力は殺すには惜しい」
「力……だと?」
「人を自在に操れる力だ。お前が今動けなくなったのも、この力のせいだよ。
この力を使いこなせれば、私がいちいち取り憑いて支配せずとも、
一言『死ね』というだけで贄を殺すことができるだろう」
……力? 瑠璃子にそんな力が?
そんな……知らない。そんな力など、僕は知らない。
「この娘よりもあの男の方が力は強いようだが……。
まあ、後で乗り換えればよいか」
「男?」
誰の……ことだ?
「さて、説明はこれで終わりだ。
まず力を使いこなす実験台として、お前に死んでもらおう」
瑠璃子が僕を睨む。
するとキーンと耳鳴りのような音がしたかと思うと、何かが僕の頭に入ってきた。
チリチリ、という何かが焼けているようなそんな音。
それとともに、わずかに残っていた僕の身体の自由が全て奪われた。
身動きひとつ、口を動かすことすらもできなくなった。
「さあ、自分で自分の首を絞めるんだ」
瑠璃子がそういうと、僕の両手が勝手に僕の首を掴んだ。
「ぐっ!?」
「そうそう。さあ、早く死んでみせろ」
僕が自分の手で僕の首を絞める姿をみて、瑠璃子は楽しそうな声をあげる……。
違う……瑠璃子は、瑠璃子は心優しい子なんだ……。
こんな、こんなことは……しない……。
息苦しさとともに、ぼくの意識は、だんだん、薄れていく。
瑠璃子……瑠璃子はそんなことは……してはいけない……。
「……意外に頑張るな。早く楽になった方がいいぞ」
違う、そうだ、奴だ……奴が、瑠璃子にこんなことを……させているんだ……。
瑠璃子は僕の妹なんだ……。こんな、ことを……させるな……。
「ふむ。少し、力を強めてみるか」
チリチリチリチリ……。熱い何かが、僕の頭を焼き付ける。
瑠璃子は……大事な、僕の、妹、なんだ……。
……何かが、僕の中で強くなっていく。
意識はほとんど薄いが、ただ、瑠璃子を思う気持ちだけが残っていた。
瑠璃子は……大事な……大事な、大事な、だいじな、だいじないもうとだ
ぼくのいもうとなんだ、ぼくのるりこなんだ
るりこを、るりこを、るりこをかえせ
かえせ、かえせ、かえせ!
「瑠璃子を、返せぇぇぇぇ!!」
僕の中で、何かが弾けた。
パァァン!
「ぐっ!?」
衝撃が、僕と瑠璃子を襲った。まるで、風船が破裂したかのような衝撃。
その時、瑠璃子から黒い影が抜け、館に向かって消えた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァ……」
……すでに、僕の身体は自由を取り戻していた。新しい空気が、僕の肺を満たす。
「……瑠璃子! 大丈夫か!?」
僕は倒れ込んだ瑠璃子に駆け寄った。奴のことなどはもはや関係なかった。
早く、瑠璃子の無事を確認したかった。
「お兄ちゃん……?」
うっすらと目を開けた瑠璃子は、僕の顔を確認すると、にっこりと笑いかけた。
大丈夫、瑠璃子だ。もう、奴はいない。
「大丈夫みたいだな……。よかった」
瑠璃子は、僕の手を支えに立ち上がった。見たところ、怪我もない。
「お兄ちゃん、ありがとう。助けてくれて」
「いや……僕は何もしてないよ。でも良かった」
僕は瑠璃子を抱きしめた。
二人の身体はどちらも冷え切っていたが、それを上回る暖かさを感じられた。
あぁ、本当に、良かった……。そう、僕は心から安心した。
その時。
『……けて!』
僕の頭に直接、聞いたことがあるような声が響き渡る。
それと同時に、瑠璃子にも聞こえたのか、その身体をビクッと震わせた。
「瑠璃子?」
僕が顔を覗き込むと、瑠璃子は急に声を上げる。
「お兄ちゃん! 長瀬ちゃんを助けてあげて!!」
何がなんだかわからなかった。でも、瑠璃子は必死に願う。
助けて、と。お兄ちゃんなら助けられる、と。
「どうして?」
僕は瑠璃子に問いかけた。
瑠璃子が嘘をつかないことは承知だ。
おそらく、何らかの方法で祐介君が危険だということがわかったのだろう。
そして、僕なら助けられるとも言っている。それなら、その理由があるはずだ。
瑠璃子は、一瞬だけためらう素振りを見せたが、やがて僕に語り始めた。
瑠璃子の使っていた、力……『電波』のことを。
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