○ プロローグ ○ 

西暦207年。
袁紹との天下を賭けた官渡の大戦を制した曹操は、華北をほぼ制圧。
その目を南に転じようとしていた。

もはや曹操の戦力は絶大で、他に並び立つ勢力はない。
しかしまだ劉表のいる荊州、そして呉の孫権は、
すんなりとは曹操の中華統一を許しそうにはなかった。
また、涼州には馬騰が健在でその軍団は無視できない。
他にも巴蜀の地には劉璋が、漢中には張魯が。
そして忘れてはいけない、自称「曹操のライバル」の劉備玄徳が新野にいた。

これらの勢力がしのぎを削る中、この物語の主人公である彼は、
荊州南部、武陵にいた。
彼の名は金旋。字を元機という。
武陵の太守である。

荊州南部の四郡(武陵・長沙・零陵・桂陽)は、劉表の支配を受けていない。
金旋を含めた四郡の太守は、曹操に太守に任じられた者たちである。
とはいえ、ここは荊南。曹操の援助も何もない。
彼らは独力で任地を維持しなければならなかった。

そこから、彼らが天下を望む気になっても誰が責められようか?
それを小人のはかない夢と笑えるだろうか?

この物語は、弱小君主である金旋が、汗と涙と努力と
その他あやしい感じのもので中華を統一(※)する過程を描いた物語である。

(※ あくまで予定の話。ほら「予定は未定」ってよく言うでしょう)



朝。
彼、金旋は起きて着替えを済ませた後、執務室へ向かう。

……君主というものは、人が羨むような贅沢な暮らしをしている、
と思われているかもしれない。
しかし、他は知らないが、彼はそんな贅沢とは無縁であった。
人の上に立つ彼は、日々の細やかな仕事があるのだ。
決して頭はよろしくない彼だったが、自分の立場はわきまえている。

武陵。荊南の一郡であるこの地は、これまで大きな戦いには
巻き込まれなかった。
しかし、これからもそうだとは限らない。
天下は動いているのだ。
華北を制した曹操は、これから先、かならず軍を荊州に進めてくるだろう。
また、その前に劉表が荊南を制しようとするかもしれない。
呉の孫権が曹操が来る前にと軍を送ってくるかもしれない。
劉璋が益州からちょっかいをかけてくるかもしれない。

かもしれない、かもしれない……。全ては仮定の話でしかない。
だが可能性がある以上、その備えはしなくてはならないだろう。
それが、この地を治める者の使命。
彼はそう考えていた。

断っておくが、彼自身はそれほど義理固くも野望を持っていたりもしない。
「日々普通に暮らしていければいい」と思う、極めて一般大衆的な人物である。
本来ならば、皆のため懸命に仕事をしよう、などと思うことはないタイプだ。
特に、今日のような特別な日……新年が明けたその日に、
仕事をしようなどとはそうそう考えたりしない。

彼が真面目に務めを果たそうとするのは、訳があった。

「お、親父。新年おめでとさん」
「ちちうえ〜。あけましておめでとーまひる〜」

執務室に入った金旋に、新年の挨拶がかけられた。
驚いた金旋は、挨拶を返すことも忘れ、そこにいる二人に問うた。
「なんだお前たち、新年の祝賀は昼からだぞ?」

……そこにいたのは、彼の愛する子ふたりであった。

男の方は、今年30歳を迎えた息子の目鯛(もくたい)。
女の方は、13歳になった娘、玉昼(ぎょくちゅう)である。

「ああ、他の奴らより前に自分の父親に挨拶しちゃ悪いってのか?」
どこで育て方を間違えたか、ガラの悪いしゃべりで絡んでくる金目鯛。
しかし顔は笑っており、本気で怒ったわけではないことはすぐわかる。
「あ、いや、鯛よ、その気持ちは嬉しいがな。
 そうだ、父親といえば……お前は自分の子に挨拶したのか?」
言われて目鯛は笑う。
「あー、そういやまだだった。嫁さんにも声かけてねーや」
「あにじゃー、それはイカンまひる。
 義姉さんが拗ねちゃうと、決まってなだめるの私なんだから〜」
目鯛には妻がおり、また子が二人いる。近々三人目が産まれる予定だ。
玉昼は結婚はまだまだだが、そのうちいい婿を探してやるつもりだった。

「ちちうえー、正月くらいはお仕事は休んだらどうまひる?」
金旋に、玉昼がそう声を掛ける。
言葉の語尾が変だが、これは彼女の癖だ。
小さい頃に「可愛いから」という理由でですますの代わりに使っていたのが、
もう抜けなくなったらしい。
「玉や〜、父上だなんて水臭い。昔のようにパパと呼んでおくれ〜」
この台詞で判ると思うが……彼は玉昼を溺愛していた。
「や! もう玉は子供じゃないまひる。その呼び方は卒業したまひる」
「うう、時の流れは残酷よのう……」
よよ、と嘘泣きをする金旋。その姿に玉昼はわたわたと慌てる。
「あいや、別にちちうえが嫌いってわけじゃなくて、ただ恥ずかしいってだけで、ああー」
「じゃ、『パパ』」
「あいや、その……」
「『パパ』。さん、はい」
「あう……」
「せーの、さん、はい」
「……ぱぱ」
「おおおおおおおおおおう! パパかんどおおおおおおおおおお!!」
オーバーアクションで感動を表現する金旋。
その姿に目鯛は呆れていた。
「親父〜。もう53歳にもなったんだし、そろそろ子離れしてくれよ」
「いや」
即答。
目鯛は二の句が出てこない。
「……まあ、親子のスキンシップはこれくらいにしてだな。
 仕事は報告書をちょちょっと目を通すだけだ。そう時間は取らんよ。
 ささ、お前たちは祝賀の宴の準備でもしておれ」
ひらひらと手を振って、金旋は二人に退室を求める。
「ああ……じゃ、また後で」
「ちちうえ、仕事頑張れまひる〜」
そう言い残し、二人は部屋を出て行った。
二人が部屋を離れていったのを確認した後、金旋は自分の机に座る。
しかし詰まれた書類には手を付けず、目を閉じ少し感慨にふけった。

家族。
それが、彼の守りたいもの。
妻には数年前に先立たれたが、二人の子とその家族は、なんとしても守る。
その決意こそが、彼が自らを立派な君主たらんとせしめているものだった。
……小人の取るに足らない凡慮と笑うことなかれ。
個人の自尊心や面子などを拠り所にする者より、よほど人間らしく、立派である。

「太守。こちらでしたか」
思いに耽っていた金旋は、その声で現実に引き戻された。
目を開けると、入り口のところにひとりの将が立っている。
「鞏志か。どうした、何か急報か?」
鞏志、この武陵の将である。
有能な人材の少ない武陵にあって、唯一と言っていいくらいの有能な士であった。
上司(金旋のことだが)からたまに出るわがままな要求を、
何とかこなそうと奔走する苦労人である。
「はあ、いえ、急ではないのですが……」
鞏志はなんと説明しようかと考えているようであった。
その時、鞏志の後ろから声が掛けられる。
「おや、太守どのはここにおられたか」
誰なのかと金旋が身を乗り出し、鞏志の後ろを伺おうとしたところに、
ひとりの老人がひょい、と鞏志の脇を通り部屋の中に入って来た。
「こ、こら御老人、まだここに来ていいとは……」
鞏志がそう言い掛けるが、金旋がそれを制した。
「どういうことだ?」
「は、はあ……この御老人が、太守に会いたい、と申しまして」
金旋の問いに、鞏志はばつが悪そうに答える。
「うむ、太守どのに御用があってな」
老人は歳で前に曲がった背を伸ばし、胸を張った。
しかし、金旋は適当にあしらうように、手を振る。
「爺様、正月の挨拶ならまた後にしてほしいな」
「おやおや太守どの。わしをそのように粗略にすると後悔なさるぞ?」
その言葉に金旋は眉をひそめる。
「は……そこまで言うのなら、爺様はよほど名のある名士なのか?」
言われて老人は、ますます胸を張る。
「うむ! 何を隠そう、このワシは……」
老人は一旦そこで、言葉を切る。
「「……ワシは?」」
続きを促す言葉が、金旋と鞏志の口から同時に漏れる。
それに頷き、老人は言葉を続けた。
「ワシは、劉髭(りゅうし)だ!」

……。
なんともいえない空気が、部屋を包んだ。
金旋は無言のまま、鞏志の顔を見る。「知ってるか?」と聞いてるようだ。
鞏志はそれに対し、首を振った。「いえ、全く」という返答か。
劉髭と名乗った老人は、依然胸を張ったままだった。
しばらく、部屋は静寂に包まれる。
そして、それを破ったのは、金旋の言葉だった。

「つまみ出せ」

「ああーーーー! 待っとくれ! 待っておくれえーーーーーー!」
鞏志に襟首を掴まれて、引きずり出されそうになり、劉髭は慌てて訴えた。
「確かに、確かに! 名は売れておらんかもしれんが!
 そこら辺の名士気取りの奴よりもよっぽど役に立つわい!
 頼む! 頼むから置いておくれえーーーーーーーーー!」
そう言いながら柱に噛り付くようにしがみつき、何とかそこに留まろうとする。
その姿に呆れながら、金旋は問うた。
「つまりあれだな、売り込みか?」
劉髭はそれにぶんぶんと勢いよく頷く。
「左様左様!
 どーも太守どのが人材不足で悩んでるようなので、
 天下の賢者たるこのワシが、重い腰をあげて来てやったというわけじゃあーーーー!
 感謝しとくれーーーーーー!」
ピクリ。
劉髭の言葉に、金旋の眉が動いた。

「帰れ」

「嘘、嘘、うそーーーー!!
 いや、人材不足で悩んでそうだと思ったのはほんとーーーー!!
 だからこのワシごときで良ければ力になろうと思ったんじゃあーーーーー!」
劉髭は叫びながら、必死に柱にしがみついている。
しかし見たところかなりの老人であり、30代の鞏志が本気になれば、
すぐに引き剥がされるだろう。
「鞏志」
「はっ……」
金旋に呼ばれ、鞏志は引っ張るのを一時中断する。
しかし、手は老人の襟首から離さない。
それを見て、金旋が笑って言い足す。
「離してやれ」
「よろしいのですか?」
鞏志の言葉に、頷く。
「面白い爺様だ。仕事の役に立たずとも、話し相手くらいにはなるだろう」
「そうそう! いやー太守どの話せるぅーーー!」

……かくして、劉髭は金旋の幕客に迎えられた。
この出来事が、金旋を、その一族の運命を大きく変えることになろうとは、
その時は誰も思わなかっただろう。

「うむ、ワシも思わなんだ」

……爺様は黙ってなさい。


さあ、三国志9リプレイ、金旋およびその家族の愛と涙の物語。
いよいよ始まります!

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